見出し画像

ウィリアム古書店と悪魔の楽譜 #パルプアドベントカレンダー2020

(約1.6万文字/読むのにかかる目安時間:約40分)

- プロローグ -

 フルートが俺の頬を掠め、廊下のランプを貫き割った。次いでクラリネット、ピッコロ、オーボエ。追手がデタラメに投げてくるそれらが直撃せぬよう祈りながら、俺たちは廊下を全力疾走する。

「おいニコ! お前んトコの楽団は暗殺術も教えてんのか!?」
「まさか! 楽器って結構高いんだよ!?」

 言い返したのは、俺の隣を走る男だった。毛玉だらけのセーターを着た、猫毛猫背のビン底メガネ。名をニコラス。音楽家だ。

「だよな、いくらお前が非常識だっつってもさすがに──」
「あ、でも指揮棒は投げたことあるかも」
「みなさん! 狙うならこっちの男を狙ってくだウワァァッ!?」

 背後の追手に呼びかけたら、俺に向かってシンバルが飛んできた。

「なんでだよ!?」

 走りながら必死で身を屈めて回避。寸前まで俺の首があったところを金属の円盤が通過して、そのまま壁を抉りながら飛んでいった。

「あっぶねぇなクソ殺す気か!」
「まぁ殺す気だろうね」
「ああそうだったな畜生!」

 さっきから執拗に楽器を投擲してくる追手は、街のオーケストラの楽団員たち……要は単なる一般人だ。そんな連中が、ニコの言う通り殺す気で俺たちを追ってきている。その顔は皆一様に青白く、目には紫色の光を宿し、そして多少のケガではひるむこともない。まるでゾンビだ。

 どうしてそんなことになったのかって? それは──

「ウィルおじちゃん! そこ右!」
「あん!? なんかあんの!?」

 声をあげたのは、俺が抱えている少女だった。金髪おさげの赤ワンピ。彼女──メアリーは、なにやら確信めいた表情で言葉を続けた。

「ひじょーかいだん! ドアに鍵がかかるの!」
「まじか!」
「うん! むかし閉じ込められたから知ってる!」
「好奇心旺盛だな!」

 そうこうする間に、正面からも楽団員たちが押し寄せてくる。挟み撃ちだ。どちらにせよ、そっちに逃げるしかない!

「ウィル、飛び込もう!」
「OKナイスだメアリー! だが俺のことはお兄さんと呼べ!」

 逡巡は一瞬。
 俺たちはその扉に飛び込むと、即座に鍵を掛けた。

 ……さて、なんだってあんな連中に追われることになったのか、の話だ。

 事の始まりは数時間前。クリスマス・イヴの夜に、ニコに呼び出されたところからだ。

- 1 -

 ジングルベル、ジングルベル、ジングルオーザウェーイ。

 浮かれた街を足早に抜け、俺は目的の家に辿り着いた。ろくに雪かきもされてない玄関先を注意して歩いて、辿り着いたドアをノックする。程なくして気怠げな声が聞こえてきた。

「開いてるよ」

 暖かい部屋には、2つの人影があった。

 ひとりはニコラス。毛玉だらけのセーターを着た、猫毛猫背のビン底メガネ。
 そしてもうひとりは、10歳くらいの少女だ。金色の髪を二つ結びにした、赤いワンピースの女の子。初めて見る顔だった。

「ん? ニコ、この子は?」
「メアリーっていうんだ。僕の教え子の娘さん」

 俺の呼びかけに、ニコラスはいつものように机から顔を上げることすらなく(人を呼び出しといてこれだ。だからこいつには友達がいない)、ぶっきらぼうに応えた。
 当のメアリーは礼儀正しくぺこりとお辞儀をすると、そのあどけない瞳をニコに向ける。

「せんせー、このおじさんがお手伝いのひと?」
「そうだよ。ウィルっていう便利屋さん」
「便利屋じゃねぇ。古本屋だ」

 そうそう。俺はウィリアム。周囲からはウィルと呼ばれている。
 古本屋を営んでいて、ニコラスはうちの店で古い楽譜やらを買ってく常連。まぁ、配達のついでに電球替えろだの薪を割れだのあれこれ手伝わされてるのは確かだが。

「? ほんやさん?」
「そーだ。あとおじさんでもねぇ。まだ29だ」
「そんなことより、これ見て」

 俺の文句をスルーして、ニコはそれまで見つめていた紙束を俺に寄越した。楽譜のようだ。素人目に見てもヒくほどの音符が書き込まれている。紙の端についているのは……血の指紋?

「……なんだこの呪いの手紙みたいな楽譜?」
「明日のクリスマス・コンサートの楽譜」
「は? てことはこれお前が書いたの!?」

 ニコは毎年、クリスマス・コンサートの作曲と指揮を手掛けている。つまり、この心の闇が溢れ出したかのような楽譜をこいつが? 確かに人間性に問題があるタイプだがそれにしても……

「な、なんか悩みあるなら聞くぜ……?」
「違う。僕が書いたわけじゃない。人の話を最後まで聞きたまえ」

 ため息と共に、ニコは立ち上がる。事の成り行きをじっと見守るメアリーを一瞥し、彼は言葉を続けた。

「確かに、今年も僕が担当のはずだった。それが、」

 俺に楽譜を押し付け、ニコは懐から一通の封筒を取り出した。差出人は劇場の支配人。インクが乾くのも待たずに出されたのだろうか、その宛名は滲んでいる。

「3日前、急に変更になったと通達がきた。なんの事前確認もなしに」
「え、マジ!?」
「ああ。信じられないことにね。……そして、だ」
「新しい曲の練習をはじめてから、ママがおかしくなっちゃったの……」

 ニコラスの言葉を継いで、メアリーがしょんぼりと口を開く。

「ご飯も食べずに、ずっと楽器を弾いてて……指も、血だらけで」

 楽譜についてる血はそれか。

 メアリー曰く、正気を失った母は丸一日バイオリンを弾いた後、ブレーカーが落ちるみたいに眠りに落ちるらしい。それがここ3日、ずっとだ。

 異常を察したメアリーは、母が"落ちた"隙に楽譜を盗んでここに駆け込んだそうだ。

「音楽のことだから、せんせーならわかるかな? って」
「なるほど。……で、ニコ? なんで俺が呼ばれたんだ?」
「便利屋さんならなんとかしてくれるかな? って」
「家の電球取り替えるみたいなノリで言ってんじゃねぇ」

 悪びれもせず言うニコにツッコミながら、俺は手元の楽譜をパラパラとめくる。どのページにもぎっしりと音符が刻まれているが、これホントに人間が弾けるのか?

「……ん?」

 ふと、手が止まった。1枚だけ、音符以外の文字が書かれたページがあったのだ。譜面と同様小さな文字。一部は血で消えているが……

「ロバート……フィル……?」
「フィリップス、だね。だいぶ字が汚いけど」

 ニコもそのサインには気付いていたらしい。ロバート・フィリップス。その名を聞いて、俺は首を捻る。

「……? なんかこの名前、見たことある気がする」
「今年から宮廷入りした宮廷魔導士だからね。それも、なにかと噂の多い人だ」
「ああ、そういやそうか。んーでもな……」

 実際、新しい宮廷魔導士殿について、よくない噂はちらほら聞いている。

 曰く、先代の宮廷魔導士を呪い殺して今の地位に着いた。
 曰く、町娘を誘拐して生贄にした。
 曰く、地獄の番犬ケルベロスを飼っている

「なんか、噂だけでなく最近見たような……だめだ、思い出せん。あとで考える」
「そ。さて、それじゃあ」

 俺の言葉に相槌を打ちつつ、ニコが俺の手から楽譜を取り上げた。それをぴらぴらと眺めながら、彼は事もなげに言ってのける。

「ウィルもきたことだし、この曲、ちょっと弾いてみようと思うんだ」
「「えっ」」

 俺とメアリーの声がハモった。弾く? これを?

「いやお前ケーサツに相談とか」
「こんな案件、取り合うと思う?」

 俺の言葉をさっさと躱し、ニコは楽譜を手にピアノへと向かう。その背に向かってメアリーが声を投げた。

「せ、せんせーもおかしくなっちゃうよ!?」
「百聞は一見にしかずと言うだろう? 大丈夫。なにかあれば便利屋さんがなんとかしてくれる」
「古本屋だっつってんだろ」

 そうこうする間に、ニコはピアノの前に座った。

 ニコが1音目を叩く。トーンと室内に音が響く。そして。

 次いで流れ始めた旋律は、俺とメアリーを絶句させるに余りあるものだった。

 楽譜の見た目どおり、ものすごい密度の曲だ。だがそれを抜きにしても、異常な曲だった。とにかく悲しく、恐ろしく、そしておぞましい旋律。12音の組み合わせとはおよそ思えぬ、怨嗟と、絶望と、恐怖の詰まった曲だ。少なくともクリスマスに聴きたい曲ではない。

「め、メアリー? お前のかーちゃんこんなの弾いてたのか?」
「わわわ、わかんない……とぎれとぎれだったから……」

 どうやらニコは、既にそれを暗譜しているらしい。譜めくりすら必要とせず、淡々と、粛々と、その楽曲を奏でていく。と──

「ひっ……」

 メアリーが悲鳴をあげたのは、30秒ほど経った頃だった。

 部屋の中の温度が急激に下がった。直後、俺たちの足元からズッと夜色の靄が立ち昇る。俺は慌ててメアリーを抱き上げつつ、ニコに向かって問いかけた。

「おいニコ、なんだこりゃ!?」
「……………………」

 ピアノを中心に、紫色の魔法陣が展開されはじめた。陣は徐々に拡大し、夜色の靄が部屋に満ちてゆく。

「おーい! ニコ! やめろ!」
「……………………」

 返事はない。夢中になっている……というか、これは尋常ではない。魔法陣が広がり、紫の靄が濃くなってゆく。

「っ……ああもう! メアリー! 部屋の隅に!」
「う、うん!」

 俺はメアリーを押しのけて、自分の頬を張る。畜生、貧乏くじはいつも俺だ。

 旋律が激しさを増していく。魔法陣の拡大が停まった。代わりに、内部の模様の密度が高くなっていく。素人の俺でもわかる。"完成"が近い。

「畜生! この靄、触って大丈夫なやつだろうな!?」

 俺は叫びながら、魔法陣の中に飛び込んだ。部屋の広さ的には三歩で届く距離。たったそれだけの間に、冷や汗が全身を濡らした。三歩目の足を、”なにか”が掴んだ。俺は構わず、ニコを蹴り飛ばした。

「オラぁっ!」
「…………ッ!?」

 ニコが吹っ飛ぶ。彼の身体が周囲の本やら箱やらをなぎ倒した瞬間、魔法陣が嘘のように消失した。

「っ……? あれ? 今、なにが……?」
「なにが、じゃねーよバカ! 死ぬかと思ったわ!」

 罵倒を交えつつ、俺はニコに状況を説明する。部屋の隅で震えていたメアリーを宥めるのも同時並行だ。

「なるほど……魔法の中には、音楽を媒体とするものがあると聞いたことがある。この曲はそういう類のものなんだね」
「ンなこと見りゃわかるわ! ったく……」

 俺は早くも後悔してきた。面倒ごとの気配しかしない。とはいえ、震えながら俺にしがみつくメアリーを無下にするわけにもいかない。

「……それにしても、だ。ニコひとりの演奏でこれってことは……」
「オーケストラでやったら大変なことになるのは間違いないね」
「だよなぁ」

 魔法陣が完成したとき、そこでなにが起こるかはわからない。ただ、ロクなもんでないのは確かだ。

「主催に事情を話して、公演やめさせるか?」
「いや。僕をクビにする手紙を送ってきたのは他ならぬ主催者だ。共謀していると思った方が良い」
「だよなぁ……いっそ会場に乗り込むか?」
「警備員に蜂の巣にされるのがオチだね」

 ああ言えばこう言う奴だ。睨みつけたがスルーされたので、俺はそのままニコに言葉を投げつける。

「お前もちったぁ考えろぃ」
「そうだな……楽譜を奪うのが手っ取り早い気がするんだけど」
「楽譜?」
「そう。あれを3日やそこらで暗譜できる人はそうそういない。多分まだほとんどの人が、楽譜がないとまともに演奏もできないはず」
「……せんせー、さっき暗譜してたよね?」
「メアリーやめとけ、こいつはそういう奴だ。だから友達が少ない」

 そんな言葉を完全にスルーして、ニコはぶつぶつと言葉を続ける。

「問題は……みんな、自宅に楽譜を持って帰ってるだろうってことだね。遠方の人もいるし……」
「ていうか変な呪いだよな。演奏を止めらんなくなるクセに、家に帰ったり楽団に行ったりはするんだろ?」
「あ」

 そこで声をあげたのは、メアリーだった。

「ママ言ってた! クリスマス・コンサート、前夜から集まって練習だって!」

 俺とニコは顔を見合わせる。

「おいおい、徹夜で練習かよ」
「コンサートの開演自体は明日の夕方だから、時間は十分ではあるけど……無理なことするもんだね」

 ニコはそこで言葉を切ると、俺の目を見て問いかけた。

「……ウィル。君、劇場の警備員と顔見知りだったよね?」

- 2 -

 通しリハとやらをやっているはずなのに、劇場は不気味に静まり返っていた。

「おーい。ちょっとー」

 俺はコートの襟をかき寄せつつ、正門の守衛室の窓を叩く。

「あん? ウィルじゃねぇか」

 窓を開けて顔を出したのは、案の定、俺の馴染みの守衛だった。名前はボニー。クリスマス・イヴは独身男性の稼ぎ時なのだ。

「どうしたウィル、こんな時間に。女に逃げられたか?」
「ちっげーよ! ここに今日、コンサートの楽団きてんだろ?」
「えっ……なんで知ってんだ、それ? 機密って話なのに」

 ボニーが目を見開く。俺はボニーの死角──窓の真下に隠れていたメアリーを抱え上げた。

「この子、ウチの店の前で泣いてたとこを保護したんだが……どうにも、迷子らしくてな?」
「おや、こんばんはお嬢ちゃん」
「こんばんは!」

 メアリーの元気な返事を聞きながら、俺は言葉を続ける。

「で、この子が、ママがここにいるっつって聞かねーんだわ」

「実は館長から、今夜はその……誰も入れるな、って言われててよ」
「そこをなんとか頼むよボニー! 人助けだと思ってさ!」

 俺の言葉にあわせ、メアリーは今にも泣きそうな顔を作ってみせた。

「おじさん……ママに会わせてくれないの?」
「なーーたのむよボニー、叱られる時は俺も一緒に叱られっからよ! この子のために! な?」
「うっ……」

 メアリーのうるうるした瞳に見つめられ、ボニーは見るからにたじろいだ。もうひと押しだ。

「おめーは門を開けるだけで良い! な! すぐ届けて、戻るからよ! 頼むよ!」
「うう……ママぁ……」
「う……わ、わかったよ!」

 言いながら、ボニーはなにやら手元をいじる。程なくして、錆びた音とともに門が開いた。

「捕まっても俺が開けたって言わないでくれよ? クビになっちまう!」
「おうよ、ありがとなボニー! 今度女の子紹介すっからよ!」
「ああはいはい、期待せずに待ってるよ」

 ぶっきらぼうに言いながら、ボニーが手をひらひらさせる。と。

 不意に、メアリーがその手をふわりと掴んだ。

「ふぇっ!?」
「おじさん、ありがと♡」

 メアリーは完璧な笑顔と共にぱちりとウィンクしてみせる。

「あ、ああいいいいえ、どういたたさしまさて」

 その一挙動で以て、ボニー・ホーキンス(28歳童貞)の言語野が崩壊した。

「じゃーなボニー。門、閉めといてくれよ」
「ばいばいおじさん!」

 ふわふわした表情のボニーを放置して、俺はメアリーを抱えたまま門をくぐる。そのまま数歩進んだ後、俺はメアリーに声をかけた。

「……メアリー、どこで覚えたんだあんなの?」
「ママがよくやるのー」
「恐ろしいママだな……」

 メアリーを連れてきて正解だったかもしれない。危ないから置いていこうとしたのだが、ついていくと駄々をこねられたのだ。

 ギィィと錆びた音と共に、門が閉まる。そうしてしばらく進んだところで、俺の後ろからニコの声がした。

「痛ったた……膝、冷たい……」
「あ、ニコ。すまん忘れてた」

 ニコは、膝についた雪をはたいていた。先程のボニーとのやり取りの最中、守衛室の死角、つまり窓の真下にじっと伏せていたのだ。

「なぁウィル、もうちょっとスマートなやり方はなかったのかい?」
「入れたから良いだろ。ボニーが気付く前に先に進むぞ」

 入り口の鍵は開いていた。慎重に侵入し、ニコの先導のもと劇場内を駆ける。
 幸い、灯りはついていた。壁掛けランプにぼんやりと照らされた劇場内には、人の気配がない。俺たちの足音以外にはなんの音もしない。

「おかしいな……」

 ニコが眉をひそめたのは、慎重に進むのが段々とばからしくなってきたころだった。

「演奏練習をするなら、この先のホールのはずなんだけど……」

 ランプに薄ぼんやりと照らされた廊下の先には、件のホールの扉が見える。中から灯りが漏れていて、人の気配……息遣いのようなものは聞こえる。が。

「楽器弾いてるにしちゃ、静かだな」

 ニコとメアリーを身振りで下がらせ、俺はホールの扉に張り付いた。全神経を集中させて、扉を少しだけ開け、覗き込む。

 中には机と椅子が並んでいた。こちらは部屋の後方の扉らしく、楽団の連中が座っているのが見える。

「…………?」

 誰も、動かない。微動だにしない。

 背筋を伸ばして、楽器を手に、ただ座って部屋の正面を見つめている。俺が扉を開けたことで室内に風が吹き込んで、誰かしらが振り返りそうなものだが、それもない。まるで感覚がないかのよう。

「……なんだこりゃ?」
「! ウィル、例の曲が聞こえる」

 首を傾げた俺の服の裾を、ニコが引っ張った。考えていても仕方がない。俺はそっと扉を閉めて、ニコの先導に従う。

「あっちだ」

 ニコの音感を頼りに、俺たちは再び通路を歩く。ほどなくして、俺の耳にも例のメロディが聴こえてきた。

「会議室?」
「みたいだね」

 扉は開いている。室内からは冷気と、例の紫の靄が漏れ出ている。俺たちは互いに視線を交わした後、ゆっくりと部屋に近づき──

「なにしてんのもう!」
「「!?!?」」

 室内から聞こえた声に身を震わせ、動きを止めた。室内の演奏が止まり、紫の靄も消える。マズい。俺は咄嗟にメアリーを抱き寄せる。ニコも息を止め、メガネを直した。

「もーーなにやってんの! ちーがう違う違う違う! どうしていつもそこで間違うんだ! もう一回!!」
「……ほっ……」

 ……どうやら、間が悪いだけだったらしい。

 再び演奏がはじまった。冷気と靄が再度溢れ出す。俺は二人に動かぬよう視線で合図すると、そっとその部屋を覗き込んだ。

 神経質に叫んでいたのは、銀髪の、初老の男だ。着ている服は、素人目にも高そうな布で作られた魔道士の装束。ロバート・フィリップスだ。

 室内には10人ほどの楽団員がいて、例の曲を同時に弾いていた。ニコが弾いたときよりも音の厚みが増していて、めちゃくちゃ気分が悪い。

 楽団員たちはメアリーの報告通り、正気を失っているようだった。気色の悪いメロディを血まみれの手で弾いている。何時間も弾かされているのだろう。

 展開された魔法陣は、先程ニコの部屋で見たときよりも大きく、中の模様も緻密だ。その中心には、指揮棒を振る男がいた。

 黒く長い髪をオールバックに撫で付けた男だ。楽団員たちと違い正気のようで、邪悪な笑みを浮かべながら指揮をしている。その頭からは……ツノ? 見間違いか?

 ……と、その時だった。

「私の、楽譜」

 不意に、声がした。背後から。

「「!?」」
「ねぇ、私の、楽譜、どこ?」

 俺たちが振り返ったとき、そいつは既にニコの眼前にいた。その腕が素早く動き、ニコの首を掴む。

「ぐっ……!?」
「ママ!?」

 メアリーが声をあげた。金髪のレディ。目元がメアリーそっくりだ。

 そいつは「楽譜、楽譜」と譫言のように呟きながら、ニコの首を締める。そして信じられないことに、その細腕でニコを持ち上げてみせた。

「ママ! やめて! ママ!」
「このっ!」

 メアリーが悲鳴をあげる。俺は全力で、メアリーの母親に体当たりをかました。その手がニコから離れる。

「げほっ……!」
「ニコ、大丈夫か」
「だだ、誰だっ!?」

 ロバートの声。演奏が止まり、室内からドタドタと音がする。マズい。と、その時。

「楽譜、私の、楽譜、楽譜」
「うおっ!? バカ足掴むな!」

 慌ててメアリー母を振り解いたとき、会議室から人が飛び出してきた。ロバート・フィリップス。そしてツノの生えた指揮者。

「な、なんですかお前たちは! ……って、お前はニコラス・フィンブル!? なぜここに!?」
「ゲホッ……そういうあなたは、宮廷魔道士のロバート・フィリップスさん」

 ロバートがヒステリックな声を上げる中、ニコは冷静に答えてみせた。無理矢理クビにした作曲家が乗り込んできたのだ。そりゃ驚くだろう。

「……ロバートさんこそ、どうしてこちらに? ここは劇場ですが?」
「う、うるさい! お前には関係のないことだ!」
「まぁまぁ、ご両人。落ち着いてください」

 ニコとロバートのやりとりに口を挟んだのは、ツノ野郎だった。

「ロバートさん。ロバート・フィリップスさん」

 そいつは大仰な態度でロバートの名を呼ぶ。びくりと身を震わすロバートに、そいつは歌うように言葉を続ける。

「彼が誰かは存じませんが……どちらにせよ、彼らを生かして帰すわけには、いきませんよね?」
「ああ、ああ……そうだ。そうだ」

 それだけで、ロバートは瞳に狂気を宿し、獰猛な笑みを浮かべた。今しがたまでニコに対してキョドっていたのが嘘のように。
 およそ人の所業ではない。頭のツノといい、こいつ──

「お、おおおお前も、生贄にしてやる!」

 ロバートが叫んだと同時に、室内から楽団員たちが駆け出してくる。そして、指揮棒を立てたツノ野郎の後ろに一瞬で整列し、楽器を武器みたいに構えた。
 そいつらの瞳には、紫色の光が宿っている。

「チッ……! ニコ! 走れ!」

 俺は即座に、メアリーを抱え上げて踵を返した。

「追え! 手足はなくても構わん!」
「行け」

 ロバートとツノ野郎の声に続き、楽団員たちの足音が追いかけてくる。

「ああクソ、どうすんだこれ!」
「とにかくまずは、安全なところを探さないと!」

 ランプの灯りが照らす廊下を、言い合いながらひた走る。
 追手はみるみる内に増えていく。先ほど部屋で“ただ座ってた”連中のようだ。どいつもこいつもなにかに操られてるみたいだ。

「めっちゃ増えてんじゃねぇかクソ……ってうわ危ねぇ!?」

 フルートが俺の頬を掠め、廊下のランプを貫き割った。次いでクラリネット、ピッコロ、オーボエ。追手がデタラメに投げてくるそれらが直撃せぬよう祈りながら、俺たちは廊下を全力疾走する──

- 3 -

 ──で、今に至るってわけだ。

 ちょうど今、俺たちは非常階段を全力で駆け上がっている。

 メアリーの言う通り扉には鍵をかけられたので、楽団員どもは扉をガンガン叩いている。少しは足止めできるだろう。

 俺たちはそのまま、ワンフロア上の扉に手をかける。軽く開き様子見。追手、なし。

「ゼェ……ハァ……よし、こっちだ……」

 そうして手近な部屋に忍び込むと、俺たちは崩れ落ちるように座り込んだ。唯一元気なメアリーが気をまわして、部屋のカーテンを閉めてくれた。これでしばらくは見つかるまい。

「ハァ……ハァ……おいニコ、あのツノ野郎は知り合いか?」
「いや……ハァ……ヒィ……し、知らない……顔だね……ハァ……」

 肩で大きく息をしながら、ニコは言葉を続ける。

「ただあれ、たぶん……ゲッホゲホ、ハァ、たぶんあれ人間じゃないよね……」
「そーだな……悪い魔道士と人外て。御伽噺かなんかかよ──って、あれ?」

 そこまで言いかけて、俺はふと言葉を止めた。

「おとぎ、ばなし……?」
「? どしたの、ウィル?」

 首を傾げるニコとメアリーを放って、俺は思案にふける。
 御伽噺。その言葉に、なんだかものすごくデジャヴを感じ──

「この本、いわくつきっすけど、大丈夫っすか?」
「いわく? どんな?」
「なんでも、悪魔を呼び出せるとかなんとか……」
「はっは、悪魔? 御伽噺かなにかですかな?」
「アーまぁ、宮廷魔道士サマなら万が一はないでしょーけど。返品は受付らんないっすからね」

「…………あっ」

 頭を過ぎったその会話に、俺は思わず声をあげた。

「俺、会ったことあるわ。ロバート・フィリップス」
「? いや、さっき会ったでしょ」
「いやそうじゃなくてだな」

 ロバート・フィリップスの名を聞いたときから、ずっと引っかかっていたんだ。どこかでその名を見た気がする。風の噂だけでなく。聞いたわけではなく、見た気がする、と。

「……あいつ、ウチの店にきてたわ」
「そういう大事なことはもっと早く思い出してほしかったな」
「わ、悪い……」

 言い返すべくもなし。

 廊下が騒がしくなった。どうやら追手が探し回っているらしい。メアリーがカーテンを閉めてくれたおかげで、まだ見つかってはいない。
 ニコが声を潜め、問いかけてきた。

「……それで? ロバートはなにか買って行ったのかい?」
「ああ。古い魔導書というか……楽譜だな。悪魔憑きって噂だった逸品だ」
「悪魔の楽譜……か」

 こちらは、腕っぷしだけが取り柄の古本屋と、モヤシっ子の音楽家と、10歳そこらの少女。対して向こうは、人外たる悪魔と、宮仕えの魔導士、そして多数の楽団員たち。

「……勝ち目、見えねぇなぁ」
「とにかく、あの悪魔をどうにかして楽団員を止めさせないと──」

 ニコが言いかけた、そんな時だった。
 廊下を走り回る追手たちの足音に紛れて、コツリ、コツリと歩く音がした。
 俺が違和感に顔をあげるのとほぼ同時に、その足音は部屋の前でぴたりと止まる。

「……まさか」
「楽、譜」

 バァンッ。
 ドアが蹴り開けられた。

「ママ!?」
「もうバレたのか畜生!」

 ドタドタドタと足音が聞こえる。追手たちがこちらに気付いたか。
 メアリーの母は、ゾンビのようにゆっくりと部屋に入ってくると、ニコに向かって迷わず手を伸ばす。ニコは咄嗟に身をよじり、カバンを取られぬよう抵抗する。

「楽譜。私の、楽譜」
「ッ……そうか、この楽譜は……」
「その通りです! 彼女はその魔力を追いかけています」

 ニコの言葉に応えたのは、ツノ野郎の声だった。
 ゴツ、ゴツと革靴の足音と共に悠然と戸口に姿を表し、ツノ野郎は言葉を続ける。

「さてさて、袋のネズミですねェ? 貴重な練習時間を奪って、覚悟はできてるんでしょうね?」
「……おい、ひとつ教えろ」

 余裕ぶったツノ野郎を睨みつけ、俺はその名を口にした。

「悪魔、マーダック」

 ぴくり、と。
 その眉が動く。

「……貴様、なぜその名を」
「街の古本屋さんをナメんなよ。お買い上げいただいた本を忘れるわけねーだろ」
「購入者のことは忘れてたけどね」

 ロバート・フィリップスが購入したのは、音楽を介した召喚魔法について記された魔導書だった。おそらく、メアリーが拝借してきたあの楽譜もそこに書かれていたものだろう。

 書籍名は、“MARDUK”。それがそのままツノ野郎の名前だったらしい。

「教えてほしいことってのは、アンタの目的だ。あのやべー曲で、なにしようってんだ?」
「ふむ。教えると思うか?」
「おいおいおい、敬語キャラ忘れてるぜ? 名前がバレてビビってんのか?」

 ツノ野郎マーダックは、警戒するような眼差しをこちらに向けている。俺は己を強いて笑ってみせる。

「まーそりゃそうだよなぁ? お前が憑いてた本を知ってるってことだからなぁ?」
「貴様……ッ!」

 激昂したマーダックの指揮棒が、ぴくりと動く。俺は慌てて両手を広げて捲し立てた。

「おおっと! いいのかそいつらをけしかけて!? 唱えちまうぜ、お前を封じる呪文をよォ!」
「…………呪文?」

 その瞬間、マーダックが訝しげに眉をひそめた。

「ん? あれ? ……“アンサモン:インバージョン・レトログレード・パラ・モジュロ・サモン”!」
「……ふん?」

 マーダックが首を傾げるのを見て、冷や汗が吹き出した。あれ、違うのか? 俺には呪文としか思えなかったんだが。

「クク……なるほど。教養がないとわからんのか……」
「え、え、呪文じゃねーのこれ!?」
「クハハハハ! まぁ貴様にはわかったところでどうしようもなかろうなァ!」

 勝ち誇った顔で言い、マーダックは指揮棒を掲げた。直立していた楽団員たちが臨戦態勢になる。やばい。やばい。

「お遊びはここまでです! ここで手足を捥いで──」

 マーダックが指揮棒を振り下ろしかけた、その時だった。

「ウィル、ナイスだ」
「お?」

 ニコの声についで、俺の後ろからカバンが飛んできた。

「ぬっ!?」

 カバンがマーダックに激突する。まだ指揮棒は立てられたまま。楽団員たちは動かない。

「小癪な……時間稼ぎのつもりか!」

 カバンの蓋が開き、中身が舞い上がった。血のついた楽譜。例の楽譜が。

「楽譜、楽譜ゥ! 私の!」
「ぬがっ!?」

 メアリー母がその楽譜を追いかけ、マーダックに飛びかかった。

「ッ!? このっ! どけッ!」
「ああ、楽譜! 楽譜!」
「ウィル、窓!」
「! お、おうよ!」

 俺は傍にあった椅子を掴むと、窓に投げつけた。派手な音と共に冷気が吹き込んでくる。ニコが窓から飛び出し、ベランダを駆け出した。俺はメアリーを抱え上げてあとを追う。

「邪魔だこのアマァッ!」
「ああっ……!」
「っ……ママ!」

 後ろから、メアリー母が投げ出される音がした。俺に縋り付いたまメアリーが声をあげるのを聞いて、ニコが走りながら声をあげた。

「メアリー、ごめんよ。急いで解決するから!」
「おいニコ! どこいくんだよ!?」
「ピアノがあるところ!」
「ピアノぉ!?」

 俺の言葉に、ニコは走りながら力強く頷いた。

「ああ。わかったんだ。あいつを封印する方法が!」

- 4 -

 迷いない足取りで駆けるニコ。廊下のこの道は覚えがある。さっきフルート手裏剣が飛んできたあたり。逃げる時とは逆ルートを辿っている形だ。

「ウィル。さっきの呪文、あれ覚え間違ってはいないよね?」
「ああ間違いねぇ。いわく付きの品だったんで、大事そうな呪文は覚えるようにしてんだ」
「ウィルおじちゃんすごい。きおくりょく!」
「そうだ。だからおじちゃんじゃない。お兄さんだ」

 ドタドタと複数の足音が追ってくる。楽団員たちだ。俺は走りながら、通りすがりの会議室の扉を開け放った。この廊下の扉は手前に開く。多少の足止めにはなるだろう。と──

「そこまでだニコラス・フィンブル!」

 ロバート・フィリップスの声と共に、氷のつぶてが飛んできた。

「「わっ!?」」
「邪魔は! させないぞ! コンサートは我々が乗っとるのだ!」

 つぶては背後の扉に突き刺さっていた。完全に殺す気の一撃。

 俺たちは慌てて手近な扉を開き盾にした。バギンッゴギンッと耳障りな音と共に、氷のつぶてが扉に突き刺さる。ぶっ壊れるのも時間の問題か。

「くそっくそっ! 炎魔法が使えればこんなやつら! ああもう!」
「……ニコ。合図したら、メアリーを連れて走れ」

 俺はメアリーを降ろし、ニコに押し付けた。

「! しかしウィル……」
「いいから。あとは頼むぞ」

 敵の攻撃がやんだ。同時に俺は扉の影から飛び出して。

「ワーーーーーーッ!」

 同時に、大声を出した。

「ヒィィッ!?」

 大声に驚いて、ロバートの詠唱が止まる。俺はそのまま間合いを詰め、速度を乗せた拳を繰り出す。

「オラァッ……痛っってェ!?」
「ヒ、ヒヒ、バーリアー!」

 全力で振り抜いた俺の拳は、ロバートの眼前で見えない壁に弾かれた。鉄でも殴ったみたいだ。俺は姿勢を大きく崩す。

「ッの野郎!」
「ぐえっ!?」

 俺は半ば意地で、左手でロバートのローブを掴んだ。ぐいと引っ張られ、ロバートの姿勢が崩れる。それを見届けて、俺は叫んだ。

「ニコ、メアリー、行け!」

 扉の影から、ニコがメアリーを抱えて飛び出し、駆ける。俺たちを抜き去って、ニコは廊下を駆けていく。
 ロバートの瞳孔が窄まる。そいつは転倒しかけたところを堪え、俺を突き飛ばす。

「ぐっ……!?」
「ニコラスゥゥ! お、おおおお前は、ここで凍って死ぬんだよォッ!」

 ロバートの正面に、大きな氷のつぶてが生成されてゆく。
 しまった。突き飛ばされた勢いで、ロバートまで少し距離が開いてしまった。インタラプトが間に合わない!

 ロバートの指先が、ニコに照準を合わせる。氷のつぶてが完成した。

「死ねェッ!」

 ロバートが叫んだその時。
 俺はその場で跳躍し、手を伸ばした。目標、廊下の照明。
 壁掛けランプ。

「おめーの相手は──」

 投げつけられればなんでもよかった。ランプを掴む。手のひらが焼ける。熱い。全体重をかける。ランプの根元が折れた。熱い。熱い! 畜生!

「──俺だァッ!」

 俺の投げたランプは、ロバートとニコの間に割って入った。その金属製のボディと熱で以て、氷のつぶてを受け止める。

「なっ……!?」

 ボンッと爆ぜる音が響いて、水蒸気が湧き上がる。ニコの姿が隠れた。
 俺は着地と同時にスプリント。唖然とした様子のロバート・フィリップスに向かって。

「ぐっ……ひぇっ!?」

 ロバートが俺に向き直った時、俺は既に跳躍していた。速力を乗せたドロップキック。しかしそれは、またもやバリアに阻まれた。

「ヒ、ヒヒ、無駄だよ! バーーリアーーがあるもの!」
「ああ、知ってるよ!」

 俺はそのバリアを蹴って跳躍、再び手を伸ばす──壁掛けランプに。

「でもこのバリア、持続時間短いよな?」
「えっ」

 ああくそ、これ熱いから嫌なんだけどな!
 右手でランプを掴む。根元が折れた。空中で身を捩る。バリアが消えた。

「オラァッ!」
「しまっ──ゴパッ!?」

 俺が投げた壁掛けランプが、ロバートの顔面に直撃した。

「よし、ヒット……ってあ痛ァッ!?」

 着地に失敗し、俺はそのまま廊下に投げ出される。ランプの欠片で切り傷まみれになりながら1回、2回とバウンドし、壁にぶつかってようやく止まった。

「あだだだだ……畜生、とんだクリスマスだ……」

 己を強いて起き上がる。全身が痛い。
 そのうちに、ドタドタと足音が追い付いてくる。
 なんとか胡座をかいた頃、俺は楽団員たちに取り囲まれていた。

 そいつらは俺を檻のように取り囲み、見下ろす。その後ろから、ゴツ、ゴツと革靴の足音が追いついてきた。

「おやおや、ロバートはやられたんですか……三流魔導士が余計なマネをするからだ……」

 悪魔・マードックが嗤う。指揮棒が天井に向いている。

「まぁ良いでしょう。ロバートが居なくても私の目的は達せられる。あなたたちを殺してね」
「痛ってて……その目的ってのは、あんたの仲間をこっちに喚ぶことかい? そんで、曲を弾く奴はその生贄みたいな?」
「ほぉ? よくお分かりですね。ロバートから聞いたんですか?」
「いんや、別に」

 じりじりと、包囲の輪が狭まる。それでも俺は、マードックを睨み上げて。

「考えてたのさ。あの魔導書に書かれた楽譜で、なにが起こるのか」
「ご推察の通り、あの曲は召喚術式ですよ。奏者や聴いた者の生命力を糧に、悪魔を生み出す。明日のコンサートで悪魔の軍勢を生み出し、現世を支配してやろうと考えていたのですが……」
「あら、ずいぶん素直に教えてくれるね?」
「ええ。冥途の土産というやつです。あなたはここで死ぬんですから」

 答えながら、マーダックは指揮棒を俺に先向けた。楽団員たちが得物を握る。濁った瞳が俺を見下ろす。
 それでも俺は、笑っていた。

「そーかい。でもそんなことより……いいのか? 俺の連れをほっといて」
「ええ。君を捕らえたらすぐにでも──」
「おや? ロバート・フィリップスからお聞きになってない?」

 俺がそう問うた、その時だった。

「あいつは人間性はアレだが、音楽に関しては天才だぜ?」

 ピアノの音が、劇場に響きはじめた。
 1音目は静かに。2音目からは激流のように、旋律が始まる。

「ッ──」

 その音が聞こえた瞬間、マードックの表情が凍りつく。

「こっ……この曲は……!」
「“アンサモン:インバージョン・レトログレード・パラ・モジュロ・サモン”。相棒はとうに解明したぜ?」

 凄まじい密度の音が織りなす、底抜けに軽やかで、元気よく、そして明るい旋律。12音の組み合わせとはおよそ思えぬ、多幸感とエネルギーに満ち溢れた曲。

「そ、送還術式!? なぜわかったなぜ知っている、いや、それ以上になぜ弾ける!? ま、まずい……!」

 マードックがテンパった隙に、俺はベルトを外して手近な楽団員の足に巻き付ける。そいつはチェロを抱えていた。

「お、お前たち! こいつは放っておけ! まずはこの音を止めろ!」
「行かせると思う?」

 俺はそのベルトを思いっきり引っ張った。チェロ弾きがぶっ倒れる。デカい楽器がぶおんと音を立てて、周囲の楽団員をなぎ倒し、そしてマードックに激突した。

「ゲェッ!? じゃ、邪魔だ! お前たち! あいつを殺せ……いや、演奏を止めろ! 早く!」

 楽団員の下敷きになり、ジタバタもがくマードック。俺は痛む身体に鞭打って立ち上がると、そいつの指揮棒を奪い取った。

 不意に、黄色の魔法陣が俺たちの足下に広がった。位置的には、ニコたちのいるホールが中心だろうか。楽団員たちとマードックの身体が、黄色い光に包まれる。

「んじゃま、向こうでお仲間とクリスマスパーティでもしてな」
「や、やめろ! せっかく現世に出られたのに! くそ! 消える! やめろ! やめっ──」

 マードックの身体が、魔法陣に沈んだ。
 もがいていた楽団員たちが眠りに落ちていく。

「あー痛たた……ふぅ。とりあえず、終わりかな」

 俺もその場で大の字になって、目を瞑った。
 希望と幸福にあふれたメロディは、それからしばらく鳴り続けていた。

- エピローグ -

 翌日、クリスマス。
 クリスマス・コンサートの舞台袖で、俺とニコはコーヒーを飲んでいた。

「結局、あの呪文はなんだったんだ?」
「ああ、あれかい?」

 “アンサモン:インバージョン・レトログレード・パラ・モジュロ・サモン”。俺にとっては謎の言葉の羅列でしかないが、ニコはあの瞬間、封印方法を理解したのだという。

「あれはね、全部音楽用語だよ。インバージョンは“転回”、レトログラードは“逆行”。“パラ・モジュロ”は同主調に転調。最後の“サモン”は多分、召喚術式のあの曲のことだろうね」
「えーっと……?」

 首を傾げる俺に、ニコは説明を続ける。

「つまり、サモン……あの楽譜のえげつない曲を、明るい曲調にして、音をズラして、楽譜の逆から弾く。それが、マードックの送還術式だったんだ」
「……それを、楽譜なしで弾いたのかお前?」
「いやぁ、覚えといてよかったよ本当。流石にミスるかと思ったけど」

 これは後から聞いた話だが、普通の人なら3年掛かっても弾けない曲だそうだ。

「さて、そろそろ行かなきゃ」
「なんとかなりそうか?」
「んーまぁ、4日前まではみんな練習してたわけだし。なんとかなるよ」

 そう言い残して、ニコは舞台へと上がって行った。

 昨夜の事件の後。
 作曲家たるマードックは消滅、宮廷魔道士は病院送り、そして楽譜は消失。そんな状況下においても、クリスマス・コンサートは実施されることになった。まぁ、当日中止はできないだとか、スポンサーがどうのとかいう大人の事情がメインだろう。

 とはいえ、開演時間を1時間遅らせ、セットリストは組み直しとなった。4日前までニコ主導で練習していた曲のうち今のコンディションで弾けるものを使うこととして、楽団員たちは舞台へと上がった。

 そうして開演したクリスマス・コンサートは……まぁ、成功裏に終わった。大成功とは言えないかもしれないが、十分に成功だったと思う。

 喝采を浴びながら、楽団員たちが舞台袖へとハケていく。

『さて、今年のクリスマス・コンサートは終わりです。急な予定変更、驚かせたかと思います。すみません』

 舞台にひとり残ったニコは、客席に向かって言葉を続ける。

『最後に、1曲だけ。最近、ちょっと大変な目に遭って……その時に出会った曲です』

 ニコはマイクにそう告げて、ピアノに向かった。

 1音目は静かに。2音目からは激流のように。
 底抜けに軽やかで、明るくて、多幸感とエネルギーにあふれた旋律が、コンサートホールを満たしていく。

「わー! あの曲だ!」

 隣ではしゃぐメアリーと共に、俺は手拍子で場を盛り上げる。それは周囲の客に瞬く間に広がって、会場全体がひとつになった。
 そんな楽しいひとときは、あっという間に過ぎ去って。

『ありがとうございました。それでは、メリークリスマス』

 御伽噺みたいなクリスマスを、ニコの言葉が締め括る。

 万雷の拍手と共に、幕が下りる。
 俺たちはそれを、笑顔で眺めていた。

(完)


 本作は #パルプアドベントカレンダー2020 参加作品です。

【飛び入り参加可】の小説アドカレ! そこのあなたも是非参加してください!
明日はazitarouさんの『旋光のスティグマ』! お楽しみに!

🍑🎅🍑🎅🍑🎅🍑🎅🍑

以下、あとがき的なサムシングです。

あとがき

 ドーモ! #パルプアドベントカレンダー2020 主催の桃之字です!
 言い出しっぺなので初日にやるぜ! と息巻いて執筆をするも、なんやかんやあって書きあがり現在、2020/12/1の4:00でございます。我ながらギリギリすぎる。開催決まって準備期間が1ヶ月くらいあったわけなんですけど、1ヶ月あるから早めに書き上がるってわけでもないんだなということを痛感。よく考えたら夏休みの宿題もギリギリまでやらんかったわ。まるで成長していない。

 さて当初予定は7000文字くらいだったはずの本作、気づけば1.5万文字まで膨らんでしまいました。台詞のテンポ感とかを重視してみたんですが、うまくいってると良いなぁと思います。

 ウィルとニコのコンビの距離感がすっごい好き。仮面ライダーWの主人公二人の序盤の距離感とか、ドラガリアロストの「コール・オブ・ビブリア」のハインヴァルト&クーガーとか。
 なんだかんだ互いに信頼しているんだけど、別に互いに深入りはしない感じというか。こういう関係性が好きな人いません??? 僕だけ???

 そうそう、封印の呪文(?)については専門家の友人に泣きついて一緒に考えてもらいました。転調とかは知ってたけど、逆行とか転向とか初耳だった。クラブカノンとか初めて知ったけどすごいですねこれ……音楽の世界は奥が深い……

 取り止めもないあとがきになってしまいましたが、あまりに眠いのと普通に平日なのでここまでにしておきます。おやすみ!


🍑いただいたドネートはたぶん日本酒に化けます 🍑感想等はお気軽に質問箱にどうぞ!   https://peing.net/ja/tate_ala_arc 🍑なお現物支給も受け付けています。   http://amzn.asia/f1QZoXz