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『ニューエクスプレスプラス タタール語』ができるまで:筆者的こだわりポイントと、できるまでの苦労

日本語で書かれたはじめての学習書が刊行された――。
先週からタタール語の世界ではこのニュースが連日伝えられている。今日タタール人の多くが暮らすのはロシア国内であることから、昨今の情勢により多くの人が良いニュースに飢えていたというのもあるのだろう。それにしても、当初思っていた以上の騒がれようである。

私の優秀なアシスタント、ふわふわのオオサンショウウオのこんにゃくちゃんと、新たに刷られたばかりの『ニューエクスプレスプラス タタール語』。

この記事では、めでたく世に出た『ニューエクスプレスプラス タタール語』について、出来上がるまでの過程を含め、著者の目線からあれこれとご紹介したい。


はじめに:日本語でタタール語が学べるということ

タタール語は世界中に散らばるように暮らす、タタール人という人たちによって話されることばである。その大半はロシア国内に暮らしているが、中央アジアや中国西部(新疆ウイグル自治区)、トルコ、フィンランド、アメリカなど、その居住地はとても広い。
トルコ語やウズベク語と同じくテュルク諸語に分類されることばで、これらの言語とはいわば親戚関係にある。

その概略については、以前白水社のリレーエッセイ「ことば紀行」に書いたものをお読みいただくとして。
これまでタタール語を学ぶには、ロシア語かトルコ語を経由する必要があった。つまり、タタール語を学ぶ前にまずロシア語かトルコ語を学ぶ必要があり、日本語話者がタタール語を学ぶのは非常に困難だった。

ちなみに本書の著者である私は学部時代にロシア語を、共著者である菱山氏はトルコ語を専攻していた。それぞれがなぜ「タタール沼」に堕ちてしまったかは、以下の記事を読んでいただきたい……(話せば長くなるので割愛)

ロシア語とトルコ語以外の言語でタタール語の学習書がまったくないわけではなく、過去には英語とドイツ語でも刊行されてはいる。ただし、日本にいる場合は入手が困難か、説明が言語学の知識がない人には不親切という難点があった。


翻ってロシア語やトルコ語の世界には、タタール語の学習書や辞書の選択肢が複数ある。とくに、タタール人口が多く、その民族共和国であるタタールスタン共和国を擁するロシアには優れた学習書と辞書が多く、タタール語を本格的に学ぶのであれば最終的にロシア語は避けては通れない道となる。

キリル文字表記タタール語の書籍
ラテン文字表記タタール語のサイト(トルコのニュースサイトTRTタタール語版より)


とはいえ、ロシア語が話される地域のタタール語はキリル文字で書かれていることから、最初のハードルは高い。文字を見ただけで難しいと感じる人もいるだろう。他方で、トルコやフィンランドなどのタタール語はラテン文字で書かれていることから、最初のハードルは低い。ただし、今日のタタール語コンテンツ(ニュースや小説など)の大半はキリル文字で作られているので、ラテン文字だけで学ぶと触れられるコンテンツの幅はとても狭い。
学習を始めてから触れられるコンテンツの幅の広さという点なども重視して、本書では最終的にタタールスタン共和国で国家語に制定されているキリル文字正書法を採用した。

本書のこだわりポイント

本書は情熱とこだわりを詰め込んだ挙句、内容的な熱さは然ることながら、物理的な厚さもなかなかのものになった。版元の白水社は、本書を「まったく「エクスプレス」ではない本の造り」と評する。ナンテコッタ。
このアツい1冊の筆者的こだわりポイントをご紹介しよう。

実際のところ、並べてみるといかに本書が欲張りまくったかが分かる。


 文法解説がアツい
もしかすると本書が日本語で出版される最初で最後のタタール語学習書になるかもしれないと、巻末の「文法のまとめと補足」(160〜169頁)には全20課のなかでは扱いきれなかった説明がみっちりと記述されている。これは共著者である菱山氏のこだわりと、これまでの研究成果が詰まった部分でもある。

初級から中上級へのかけはしとしての意味合いも強い「文法のまとめと補足」は、ある程度学習が進んだ人には超ありがたい項目。写真は本書160頁。


② 文化関連コラムもアツい
どうせ出すなら、そして、もし最初で最後になるかもしれないのであれば、タタール語だけに留めた1冊にはしたくなかった。文学や音楽、料理や生活など、タタール語を話す人々の文化にも親しめるものにしたかった。そこで、会話スキットだけで紹介しきれなかったものについては、さまざまな形のコラムで散りばめた。コラムはいずれも私が担当したもので、ことわざ、文化紹介、生活文化などを紹介する。

タタール語のことわざコラムは①〜④まであり、いくつかのカテゴリーに分けて紹介している。写真は本書43頁。(肝心な部分はあえてぼかしているので、気になるかたはぜひお手に取ってみてください〜)
直接的にタタール文化に関わるものだけでなく、ロシアのなかのタタール文化の一端として、たとえばロシア語のなかのテュルク語由来の語(テュルキズム)も紹介する。写真は本書111頁。
極め付けは①〜③まである「タタール語で楽しもう」のうち、最後に紹介するタタール肉じゃが「アズー」のレシピ。日本で手に入るもので簡単に作れるので、ぜひとも味覚からもタタール文化を体験してみてほしい。写真は本書146〜147頁。


③学習項目は相当欲張りコース
とくにすでにテュルク諸語をご存知の方なら、この目次をご覧になっただけでも本書の欲張りぶりに驚かれるのではと思う。著者としても、よく20課だけでこれだけの学習事項をおさえていると思う。
本書をじっくりと学ぶだけで、初級のみならず中級の入り口までは辿り着ける設定になっている。また、巻末の単語リストには約1200語をまとめた。いかんせん辞書がないので、単語リストもかなりと欲張っている。(1200語という基準は、英検でいえば最低限の会話のキャッチボールができる3級と同等程度の語彙数にあたる)

『ニューエクスプレスプラス タタール語』目次より。本書5〜7頁。画像は拡大可能。


④挿し絵がとても精巧
本書の20課すべてと、そのほか数カ所を彩るのが、タタールスタン域内の景色のほか、タタールの生活や文化をいきいきと伝えるすてきな挿し絵だ。これらはいずれも、イラストレーターのわたなべゆいこさんによって描かれたものである。カザンの景色やタタール文化に関連するものなど、なかなか見る機会もなければ、描く機会もないであろうものを、驚くほどうまく表現してくださった。(実はカザンに滞在されたことがあるのではないか・・と思うほど)

第1課の挿し絵にはカザン連邦大学の代表的な建物とレーニン像が描かれる。
実は本書の挿し絵のなかには著者二人がひっそりと描かれている。私タタ村はわかりやすいが(96頁)、菱山氏はすこし難易度が高いかもしれない。

これらのかわいらしくも、ありありとタタールの世界を伝えてくれる挿し絵のおかげで、本書はずいぶんとソフトな印象を醸しだすことに成功している。文字だけでは想像がしにくい会話スキットの場面もずいぶんとイメージしやすくなっている。ゴツい本書がただの凶器(狂気)にならないで済んだのは、挿し絵のおかげだろう……

⑤音声トラックの長さもシリーズ最長
これまでに刊行されてきた『ニューエクスプレスプラス』のシリーズでは、〜プラスになってから追加された「簡単なスピーチの表現」や「簡単なメッセージの表現」に音声はついていなかった。本書ではこれらのほか、本書独特の項目である「タタール語で楽しもう」にも可能な限り音声をつけている。

多くのシリーズがトラック70〜80程度のところ、本書はディスクに収められるギリギリの分数でトラック92まで詰め込まれている。
音声の収録は10月末の日曜日、都内某所の録音スタジオで3時間かけて行われた。ナレーターのおふたりはロシアのご出身で、いずれも日本で働いておられるタタール語母語話者。


思い残したポイント

今のところは幸いやりきったという思いが強く、思い残したことは実はあまり多くはない。この本が世に出るまで4年近く(そのあいだに私も菱山氏も博論執筆&審査があったので中断期間もあった)、それはもう話し合いに話し合いを重ねたし、内容もかなりと精査されている。

ただ、1点だけ、個人的な思い残しがあるとすれば、コラム「タタール語で楽しもう①〜②」で紹介したトゥカイの《Туган тел》/トゥガン・テル――祖なることばと、《Китмә, сандугач!》/行かないでおくれ、ナイチンゲールよ!を楽曲としてご紹介できなかったことである。(ただし、本書ではいずれも朗読としては音声収録されている)
いずれも非常に知られた歌であり、旋律もまた美しいので、本書を手に取った方はぜひとも動画共有サイトなどで聴いてみてほしいと思っている。

《Туган тел》トゥガン・テル――祖なることば(本書84〜85頁)

タタールなら誰でも知る歌。ロシアを代表する歌手アルスー(タタールスタン出身)により、2008年にリリースされた全曲タタール語のアルバム《Туган тел》に収録。

《Китмә, сандугач!》行かないでおくれ、ナイチンゲールよ(本書112〜113頁)

望郷の歌。オペラからポップスまでこなす歌唱力で定評のある若手歌手Филүс Каһиров/フィリュス・カヒロフによる歌唱。タタール人口の多いカザフスタン・アルマトゥでの演奏会にて。


苦労したポイント

①ロシア語借用語を斜体にする
タタール語のなかにはロシア語からの借用語が多く含まれている。ロシア語借用語の多くはタタール語の発音と綴りの規則ではなく、基本的にはロシア語の発音と綴りのまま借用されることから、ロシア語借用語はそうであることを分かりやすく示す必要があった。そこで、本書ではロシア語借用語は斜体で示している。

語単体でも、文中でも、ロシア語借用語は斜体で示すことにしたのだが、この作業がとても大変だった。少なくとも、初稿の時点では以下のように立体のままにすべきところ(ロシア語借用語ではない)を斜体にしていたり、斜体にすべきところ(ロシア語借用語)を立体のままにしていたり、といった修正箇所が大量発生していた。

初稿。上記の場合はロシア語借用語であるпаркは斜体に、そうではないкибетは立体にすべき箇所であった。
татар рестораныのように組み合わさった場合はさらにたいへんだった。


②たくさんのはみ出し、たくさんの削り
これは主にスキットのあとの文法解説を担当した菱山さんの苦労だったと思うが、初稿の段階でも多くのはみ出しが発生した。決まった構成になんとか収めなくてはならないので、もったいないほど削った箇所も多い。少なくとも、初稿以前のベータ版の時点と比べると、最終的には4割ほど削った箇所もある。(結果的に入りきらなかった文法項目については、巻末の「文法のまとめと補足」に回された)

初稿ゲラは送ったので手元にはない。いかに初稿ゲラから削ったか写真に残しておけばよかった。ゲラを広げるのに広い机を求めて、近所のカフェやフードコートにはたいへんお世話になった。


③手本のない筆記体を書く
キリル文字圏では一般的に筆記体で手書きされる。キリル文字の筆記体はやや厄介で、立体のキリル文字とは大きく異なるものがいくつかある。
ほとんどの文字はロシア語教材から流用できるのだが、タタール語にはロシア語にはない6つの文字がある。自分の本棚を探しても、学校教科書を見ても、キリル文字タタール語の筆記体手本が載ったものがない。インターネットを探してもよいものがない。学校で先生から習うのが一般的であることから、わざわざ教科書には載せないのだろう。

仕方がないので、日本でいえば小学校で教師をしている友人を通じて、何人かのタタール語教師が書いた文字を写真に撮って送ってもらうことにした。普段私が書く文字は癖があることから、教師たちが書いた美しい板書を見ながら何度か清書をして、最終的に見本としても問題のないものを見開きに載せることになった。キリル文字タタール語の筆記体まで載せたタタール語学習書は、おそらく本書だけではないだろうか。

さまざまなインク、濃さ、太さ、大きさで、20枚くらいは書いたように思う。
最終的には鉛筆書きしたものがいちばん"つなぎ"の部分の力加減がよく伝わることから、ペンではなく鉛筆で描いたものを見本に採用した。
筆記体を書いただけでなく、そういえば最後に載せる地図を描いたのもなかなか大変であり、楽しい作業だった。普通は専門とする人に製図してもらうのかもしれないが、文字化けが怖かったので自作した。この地図はiPadとApple Pencilのおかげで完成。


ニューエク著者にならないとたぶん知らないこと

①カバーの色は著者が選べる
いちばん驚いたのは、カバーの色は著者が自由に選べるという点だった。手元にあるものを見ると、たとえばトルコ語は水色、バスク語とウクライナ語は紫色、ロシア語が緑色など、いくつかのカラーバリエーションがある。何か法則性があるのかと思いきや、そうではなかった。

ちなみにダイソーのクリアブックカバーA5サイズは、ニューエクスプレスシリーズのブックカバーとして最適なサイズである。分厚いタタール語でも大丈夫だった。

『ニューエクスプレスプラス タタール語』の表紙色は、著者ふたりとも迷わず緑色を選んだ。緑色はタタールに最も好まれる色だからである。(イスラーム的に神聖な色だからとも、古くから民族に由縁のある色だからとも言われている)

②見本に何冊かいただける…(ゴクリ
ありがたいことに、執筆することが決まると、見本としてシリーズのほかの言語のものを何冊かいただくことができた。執筆するさいに、とくに構成の面でほかのものを参照するのにたいへん役に立ったのは言うまでもないが、語学好きとしては手元に語学書が増えるのが嬉しくてたまらなかった。

たしかグルジア語(ジョージア語)は見本としていただいたものの1つだった。まさにこのページのおかげでタタール語も筆記体見本を入れようという発想に至った。


③編集者の集中力と洞察力、まじでやばい
本書を担当してくださった編集者はロシア語もたいへんよくご存知の方だったので、その知識をもとに内容に関するつっこみや質問も多くいただいた。何よりも、キリル文字の教材を作るうえでたいへん心強かった。それだけでなく、細かい誤字脱字や、全体の表記統一、適切な表現など、驚くべき洞察力でバキバキと赤入れしてくださった。本当に心強く、この本は編集者のKさんを含めた3人で書き上げたものだとすら思っている。

このように、いちばん最初のページから表記統一や表現など、たくさんの助言が入った。


さいごに:ニューエクスプレスシリーズと私

私が自分のお金で購入したいちばん最初の語学書は、黒田龍之助先生による『ニューエクスプレス ロシア語』だった。この本が私の手元にやってきたのは2007年、中学2年生のときのことだった。

それはもう夢中になった。数え切れないほど繰り返した。中学校を卒業するまでに少なくとも10周はしたと思う。高校に入るころには、すべての課の会話文も、練習問題の例文も、すべて誦じることができたくらいだった。

黒田龍之助『ニューエクスプレス ロシア語』2007年、白水社。

『ニューエクスプレス ロシア語』を手にしてから早15年、今やロシア語は私の人生にとってはなくてはならない言語になっている。
たとえばそれは、ロシア語を教えるという仕事であったり、研究生活を送るうえで必要な文献資料を読むためであったり、あるいは大切な友人たちと語らったり、大好きな音楽を味わうためであったりと実に幅広い。『ニューエクスプレスプラス タタール語』も、ある意味ではロシア語の知識もあったからこそ完成したともいえる。

私とロシア語との出会い、そしてその後どうなったかについては、別の記事を読んでいただくとして。

小中学生だった当時の私は、学校にあまり馴染めず、かといって家庭内にも心安らぐ居場所はなく、今すぐにでもどこか遠くの見知らぬ土地に飛び出したくてしかたがなかった。

今すぐにでも遠くに飛び出していきたい私を、心理的にも知識の面でも強く支えてくれたのはほかでもない、語学書だった。
小説も似たような理由で好きだったが、すぐに終わってしまうのがいつも悲しかった。荷物にならない一生モノの知識を与えてくれるという点で、そして、たった1冊買えば最後の頁に到達するまで数ヶ月、ものによっては年単位でかかるという点で、語学書は当時の私にとってたいへんな希望だった。

いつからか、こうして遠くの土地に飛び出していきたい誰か、まだ知らぬ文化や価値観と出会って自分の居場所は今いる場所だけに限らないと希望を持ちたい誰かにとっての福音たる、語学書を書いてみたいと思うようになった。


それから15年が経った。それは本当に叶う日がきた。
『ニューエクスプレスプラス タタール語』の出版を以って。

中学生のころに見よう見まねで書いた筆記体はお世辞にもあまり美しくはないが、それでも、消せずにいる。


ヒヨコがはじめて見たものを親と思うのと似たようなもので、私にとっての語学書といえば『ニューエクスプレス』そのものであった。これは今でも変わらない。いつか語学書を世に出してみたいと思い始めたときに、心のなかで思い描いていたのはやはり、会話スキットがあり、文法解説があり、練習問題がある構成――つまり『ニューエクスプレス』そのものだった。

だから、ニューエクスプレスシリーズから新たな語学書を世に出せたことが嬉しくて嬉しくて、今なおどのようなことばで表現したらよいか分からないほどの感激のなかにいる。

この企画を実現してくださった白水社の皆さまには、最大限の敬意をもって感謝申し上げたい。ありがとうございました。また、共著者の菱山氏にも、なんと感謝申し上げたらよいか分からない。生きる時代を同じくする者(замандаш)かつ向かう方向を同じくする者(иптәш)であってくれてありがとう。

校正作業を手伝ってくれた?ふわふわのオオサンショウウオたちにも、感謝しなくては。


というわけで皆さま、『ニューエクスプレスプラス タタール語』をどうぞよろしくお願いいたします。(買って後悔はさせない&しばらく退屈させない情報量の自信はあります)


Рәхмәт сезгә! ここまで読んでいただきありがとうございました!いただいたサポートは私の研究生活になくてはならないチョコレートとグミ、コーヒーの購入費に充てたいと思います。