私がタタール語講師になるまで
こんにちは。チュヴァシ語も研究するタタール語講師の boltwatts です。ちなみに boltwatts(ボルトワッツ)というのは、道で拾った六角ボルトをもとに小学生の時に作ったキャラクターの名前です。チュヴァシ語とタタール語はトルコ語と同じくテュルク系の言語ということもあって、私はテュルク友の会のメンバーです。会のアカウントでは、すでにチュヴァシ語について記事を書いています。
今回は個人アカウントでの最初の投稿なので、自己紹介を兼ねて、タタール語講師になるまでの経緯について書こうと思います。
1. トルコ語との出会いと外大入学
小学生のころは地図が好きで、世界の国々について調べるのが趣味でした(首都の名前を全部覚えたりしていました)。
中学2年生になると、世界の言語にも興味を持つようになり、まずは文字が面白いタイ語や韓国語から入りました。同じ時期に、もともと世界の国々の中でなぜか特にトルコが好きだったので、トルコ語の勉強も始めました。タイ語と韓国語は文字と発音が難しく、続きませんでした。トルコ語はCDエクスプレス・トルコ語を使って勉強しましたが、文字がラテン文字だったこともあってか学びやすく、続けることができました。その頃から、東京外大のトルコ語専攻を目指そうと思いはじめました。
高校では、トルコ語を続けつつ、外大合格を目標に勉強していました。今思えばものすごい偶然ですが、高校1年生の時の担任がトルコ語のできる先生でした(トルコに住んでいたことがあったそうです)。2年生の時に学べる第二外国語は、(ドイツにトルコ人が多いという理由で)ドイツ語を選択しました。最初から志望校が決まっていたので、(理系科目を捨てて)英語の勉強に集中できたこともあり、外大に無事合格することができました。
外大トルコ語専攻に入学すると、専攻語のトルコ語だけでなく、いろいろな言語の授業を受けました。1・2年生の時にはスペイン語(副専攻語)、2年生の時にはカタルーニャ語、オランダ語、現代ギリシャ語、スワヒリ語、ウズベク語、3年生の時には現代ウイグル語、カザフ語を受講しました(他にもあったかもしれません)。これらのうち、ウズベク語、カザフ語、現代ウイグル語は、トルコ語と同じくテュルク系の言語です。テュルク系の言語はお互いによく似ているので、比べながら学ぶのが楽しく、他にも勉強してみたくなりました。
2. タタール語との出会いと初めての海外旅行
3年生の夏、たまたま YouTube でタタール語の歌を聞きました。Аерылмагыз(アユルルマグズ)「別れないで」という歌で、ラテン文字でタタール語の字幕が付いていました(その動画はもう削除されています)。トルコ語の知識で、ある程度歌詞の意味が分かりました。歌が気に入ったのと、言語の響きが美しく感じられたので、独学でタタール語を学んでみることにしました。最初は、大学の図書館にあった教科書(ドイツ語で書かれたもの)や、ネットで入手したタタール語・ロシア語辞書と、紙のロシア語・日本語辞書を使って勉強していました。受講したウズベク語、カザフ語、現代ウイグル語はあまりできるようになりませんでしたが、タタール語は相性が良かったのか、順調に勉強が進みました。
Аерылмагыз, аерылмагыз. Булса да сәбәпләре.
アユルルマグズ アユルルマグズ ブルサ ダ セベプレレ
「別れないで、別れないで。理由があっても。」
4年生になると、タタール語について卒論を書こうと思いはじめました。4年生の夏には、卒論のための情報収集で、タタールメディアにタタール語でメールを送りました。すると、タタール語ができる日本人ということで興味を持たれて、電話で逆取材を受けました。その時に初めて、タタール人とタタール語で会話しました。この取材がもとになった記事が出ると、偶然このとき東京に来たばかりだったタタール人の青年からメッセージが来ました。(タタールスタンの首都)カザン出身の彼は、2か月間モデルとして働きに来ていて、帰国するまで10回ほど会いました。私にとって最初のタタール人の友達となった彼と、「次はカザンで会おう」と約束しました。
タタール語をもっと研究したかったので、卒業後は修士課程に進学しました。修士1年の夏休み、友達との約束を果たすため、カザンに行きました。初めての海外旅行でした。友達と再会し、SNSで知り合っていたカザン大学の先生と初めて会いました。3泊4日の短い期間でしたが、彼らに色々なところに連れて行ってもらいました。その中の一つが、地元のテレビスタジオでした。カザン大学の先生に連れられて、テレビ番組に出演したのですが、これがその後の進路に大きな影響を与えることになりました。
3. タタール語オリンピックとカザン留学
帰国後すぐ、私が出演したテレビ番組を見たという方からメールが来ました。アメリカ在住のその方は、日本生まれのいわゆる「在日タタール」だった方でした。彼女に、「国際タタール語オリンピックというのがあるから、出てみたらどう?」と言われ、面白そうだなと思い、参加してみることにしました。カザン大学のサイトで参加登録を済ませ、12月にオンライン試験を受けました。合格者は翌年の4月にカザンで行われる本選に招待されるとのことでした。点数はあまり高くありませんでしたが、日本からの受験者が珍しかったこともあってか、合格していました。ただ、まだ1回しか行われていなかったこのオリンピックについての情報は少なく、本当に招待されるのか、半信半疑でした。
翌年の3月末になって、オリンピックを主催するタタールスタン教育科学省との間で、ビザや航空券に関するやり取りが始まりました。そして4月末、タタール語オリンピック本選に参加しました。外国からの参加者は、口述試験を受けました。口述試験は、試験官がランダムに配ったお題への回答を、その場で20分ほど考えて作文し、それを読んで発表するという形式でした。私が引いたお題は、「あなたの夢は何ですか?それを叶えるために何をしていますか?」というものでした(このお題を引いたのは本当に運が良かったです)。私は次のように回答しました。
「私の夢は、タタール語の研究者になって、日本の大学でタタール語を教えることです。この夢を叶えるために、私はいま東京外大でタタール語の文法を研究しています。しかし、日本で学ぶだけでは不十分なので、近い将来、カザンに留学したいです。カザンで学んだあと、日本で良い学位論文を書き、タタール語の研究者になることができれば、私はとても嬉しいです」
結果、私は(外国枠の)グランプリを受賞しました。他の参加者(ほぼ全員がタタール人)に比べてタタール語力は明らかに劣っていたので、グランプリを受賞するとは全く予想していませんでした。授賞式でタタールスタンのミンニハノフ大統領から手渡されたのは、カザン大学タタール語学科への学費免除入学権でした。
オリンピックから4か月後、私は外大を休学し、2年間のカザン留学を開始しました。カザン大学の正規の修士課程に入学し、「テュルク諸語と異文化コミュニケーション」というプログラムで学びました。授業の多くはタタール語で行われ、修士論文もタタール語で書きました。留学中はいろいろなことがありましたが、ここには書ききれないので、詳しくは別の記事に書こうと思います。
4. タタール語講師に
帰国後は外大に復学し、再び修士論文を書きました。タタール語の研究者になるため、修了後は博士課程に進学しました。博士1年目の秋、留学中に執筆が始まっていた共著『タタールスタンファンブック』が刊行されました。満期退学後のおととし10月、外大でタタール語の授業が開講され、私は夢であったタタール語講師になりました。昨年4月には、教え子がタタール語オリンピックに参加し、見事入賞を果たしました。9月にはタタール語に関する博士論文を提出し、12月に博士号が授与されました。
現在は、非常勤講師としてタタール語の教育・研究を行いつつ(タタール語の語学書も執筆中)、お隣のチュヴァシ語の研究も行っています。今後は研究対象を他の周辺言語にまで広げ、その地域の言語の特徴と歴史に迫っていきたいと考えています。また、テュルク友の会のメンバーとして、タタールやチュヴァシについての情報発信も行っていこうと思っています。どうぞよろしくお願いいたします!
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