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VTuberに関する山野弘樹氏の2つの文を読んで

最近、VTuberを研究テーマにしていて話題の哲学徒・山野弘樹氏が書いた2つの文章を読んだ。2つめは今日読んだ。
1つはWeb記事の『「VTuberの哲学」序論――多様化するVTuberと「身体」としてのアバター』。

もう1つは、雑誌『フィルカル』Vol. 7, No. 2 に収録の論文『「バーチャルYouTuber」とは誰を指し示すのか?』である。

(以降簡便のため、1つめのWeb記事を単に「記事」、2つめの論文を「論文」と呼称することにする)

山野氏とは少し前に某所で個人的にやり取りさせてもらって、その議論も面白かったし、その際に、VTuberに関する論文の査読が通ってそのうち出版される、という事を聞いて結構楽しみにしていた。
そんな中、数日程度ではあるが先駆けて記事の方を読み、非常に興味深い内容だったので、これは論文もチェックした上でnoteを書こう、と、ずっと思っていたのだった。

というわけで、今日雑誌が届いて論文を一通り読んだので、早速その感想を書いていこうと思う。批評ではない。ただの読書感想文である。
以降、まず記事について、その後付加的に論文について感想を述べていく。

「キャラか中の人か」だけでないVTuberの分類

最初に記事の内容について簡単にまとめておく。
冒頭、山野氏はVTuberの分類を目的として、まず以下の2つのタイプを挙げている。

  • A: 配信者タイプ

  • B: 虚構的存在者タイプ

前者は、いわゆる「中の人」の人格あるいは活動が表に出ていて、そちらが支配的なVTuberを指す。HIKAKIN、ガッチマン、バーチャル美少女ねむ、など。
後者は、まずフィクションとしての物語があって、その中のキャラがVTuberをしている(と思われる)タイプのVTuberを指す。ゴールドシップ(ウマ娘)や麻宮アテナ(KOF)など。
更にそれぞれが視聴者にとっても明らかなもの(顕在的)かよくわからないもの(潜在的)かで2つに分かれ、合わせて4つのタイプが存在する。鳩場つぐは潜在的なBタイプである。

しかし、特ににじさんじ・ホロライブの2大事務所に所属するVを始め、現時点でのほとんどのVTuber(典型的なVTuber)はこのどのタイプにも属さない、というのが山野氏の主張である。ごくごく一般的なリスナーは「リアル配信者が絵を被っている」とも「キャラを中の人が演じてる」とも意識していないはずだ、と。
そこで、典型的なVTuberの存在はキャラ(ガワ)にも中の人にも還元されないと喝破したのが、今回の山野氏の最大の貢献ではないだろうか。
更に、この「非還元タイプ」(Cタイプ)には「配信者の日常的な言動を明示的な形で組み込むか」で極端なタイプと穏健なタイプに分かれるが、前者はキズナアイなどごく限られたVしかおらず、にじホロのライバーはほぼ後者、つまり穏健な非還元型タイプである、としている。

この指摘は本当に慧眼だと思っている。僕は月ノ美兎委員長が最推しなので彼女を例に出すと、委員長のメインコンテンツはエピソードトークである。小さい頃の奇特な体験や、あるいは最近どこか風変わりな場所に行ってきた体験を、時にはイラスト混じりで面白おかしく紹介するのが彼女の持ち味の1つである。
それらの体験は明らかに「中の人」のもののはずが、彼女が配信で話すことで、それらは「月ノ美兎」のものになっていく。いつも彼女の体験はとても個性的なのだけど、我々はそれを「月ノ美兎の個性」として受け取るし、「やっぱ委員長だよな」と思ってしまう。この時点で、彼女が話した体験は「中の人」のものなのか、「月ノ美兎」なるキャラのものなのか、リスナーにはもはや判別できなくなっている。
この指摘には、まさに、と思ったし、僕自身VTuberに対してこれまでもどかしく感じていた部分がこの論説でようやく言語化され、明確になったと感じている。

「誰の物語」か

山野氏はこうしてVTuberを6タイプに分類したが、これらの分類は基本的に「そのVTuberが背負うのは誰の物語か」という視点から捉えたもの、と言える。ここでの「物語」は「歴史」あるいは「文脈」と読み替えても良い。
中の人の人生をそのままVTuberの物語としたのがAタイプ、キャラが属する既存のフィクションをVの物語としたのがBタイプで、由来はともかくVの口から語られた・Vの身体を通じて活動された時点で、キャラの物語か中の人の物語か、渾然としてわからなくなってしまっているのが、Cの中でも穏健な非還元タイプ、といえる。

そういった観点に立つと、(これはTwtterでも述べたのだが)たとえば記事の中で述べられているコスプレと非還元タイプVTuberの違いについて、もう少し突っ込んだ議論が可能である。記事の中では、次のように書かれている。

典型的なVTuberたちにとって、アバターとは字義通り「身体」に他ならない存在である。それは「コスプレ」とは全く次元の異なるものである。

「コスプレ」なのであれば、いくらでも替えが利く。だが、典型的なVTuberたちにとって自らのアバターとは、それによって行為しなければならない身体表現の「場」に他ならないのだ。言わば、「付き合っていかなければならない身体」という意味において、私たちが有する「身体」と同列の水準に存在するのである。

記事より引用

ここの後段で述べられている「いくらでも替えが効く」といった特徴は、「コスプレ」がアニメなどの既存のフィクションに属するキャラになりきる行為だから、といえる。「替えが効く」のは、コスプレイヤーがそのキャラの物語を別に背負っていないからである。カッコウのひな鳥のように、既存のキャラに自分のアイデンティティを一時的に仮託しているだけだからだ。

しかしでは、もし、コスプレイヤーがそうした既存のキャラでなくオリジナルキャラのコスをしていて、そのレイヤーによるコスでしかそのキャラにお目にかかる機会がなく、しかも何故かそのキャラが周知のものとなって、沢山のファンを獲得してしまった、としたら?
そのキャラの物語はそのレイヤーによって紡がれるしかなくなるのではないか。コスプレ会場での彼or彼女の一挙手一投足がそのキャラの物語になっていくのではないか。
それって、穏健な非還元タイプのVTuberと何が違うんだろうか?

でも、そんな奇特な人いるっけ……としばらく考えてたら1人思いついた。デーモン小暮閣下である。

Wikipediaより)

あれ? デーモン閣下ってVTuberなんじゃね?
いや、真面目に、デーモン閣下とVの区別がつかない。結構前からその違いは何だろうかと不思議に思っていたんだけど、山野氏の説を踏まえても違いがわからない。もしかしたら本当に同一の存在なのかもしれない。

(ちなみに余談だが、ここまでの内容はほぼ全て、論文を読む前に書こうと決めていたものである。「誰の物語か」というワーディングも文字通りこのまま考えていて、この観点を軸にして話を展開しようと思っていた。
なので、論文を読んだときに「物語」がそのまま山野氏の論文でもキーワードになっていたことに大変驚いた。)

統合した存在から中の人との乖離へ

さて、そんな事を考えながら、今日論文を読んだ。
さすがに一般向けの記事ではなく査読付きの論文なだけあって、丁寧かつ慎重に論が進められていたが、主旨だけ見れば(当たり前だが)前半は記事の内容とそう大きく変わるものではなかった。途中、難波優輝氏の「三層理論」への批判も書かれているが、このnoteの主旨からは外れるのでここでは触れない。
(強いて言えば、記事のほうがもっと洗練されている印象を受けた。これは、出版は論文のほうが後だったものの、査読期間を考えると実際に書かれたのは論文のほうが記事よりずっと前のはずであり、出版を待つ間に山野氏自身がかなりブラッシュアップされたからではないか、と推測している。)

記事にない新規な内容は、3節の『「穏健な独立説」とは何か?――「両立説」を乗り越える』であろう。キャラでも中の人でもない、統合した存在であるVTuberが、どうやってアイデンティティを獲得していくか、その過程を記述したものである。
ここでは以下のような、3つの段階を踏まえる、としている。

  1. 「身体的アイデンティティ」の成立

  2. 「倫理的アイデンティティ」の成立

  3. 「物語的アイデンティティ」の成立

身体的アイデンティティは、つまり目や口、手の動きなど、中の人の動作がアバターの動作に転換されることによって生まれる。
倫理的アイデンティティは、VTuberの名前を呼ばれて中の人が反応する、あるいは中の人がキャラを指して「私」と呼ぶ、といった行為から生まれる。
そして物語的アイデンティティは、VTuberとしての活動の積み重ね、配信中の中の人の振る舞いの積み重ねが歴史となり、VTuber独自の物語となっていくことによって生まれる。

ここまでは素直に理解できたし、腑に落ちた。中の人の言動が、統合されたVTuberの言動となっていく過程を細かに説明したものと言える。
ただ、物語アイデンティティの成立により、VTuberのアイデンティティは中の人との違いを生み、独立する……という趣旨のことが書いてあり、かなり戸惑った。

この箇所だけ何度か読み返してもピンと来ず、消化不良の感が否めなかった。2, 3時間思索してもどうにもわからず、悩んだ末に、山野氏の論のベースとなっていると思しきリクールを当たることにした。

といっても原典に行くのは週末の読書感想文を書きたいだけの人間には荷が重すぎ(買ったけど)、ネットで拾えるリクール論をいくつか当たってみて、ようやく自分なりに咀嚼できた。
(ちなみに参考にした文献は最後に載せる。特に荒木の論は参考になった。)

中の人がVTuberとして振る舞い活動を続けることで、VTuberとしての歴史が積み上がっていく。また月ノ美兎委員長を例に出すのだけど、委員長も
「『ムカデ人間』を観たことがある」
「洗濯機の上から配信していた」
「小学校の頃校庭の雑草を食べていた」
といった(本来は中の人の)エピソードが積み重なって、「月ノ美兎はこんな人」というイメージができあがってきたのだ。
しかしこの中には、委員長(の中の人)が敢えて語らなかったことは含まれない。中の人のあまりに私的なことは当然語られないし、また昨年出版されたエッセイ(あるいはそれに関連した配信)にて、委員長は
「自分は性格が悪いが、そう思われるようなことは配信では慎むようにしている」
「空気が重くなるような話題は配信ではしない」
といった発言をしている。つまり、そういった中の人だけのエピソードはVTuber「月ノ美兎」の物語には組み込まれない。そこに、VTuberと中の人との乖離が生まれる。
まして、VTuberはリスナーとのインタラクションによって成立しているコンテンツでもあり、二次創作が盛んなこともあって、VTuberの物語は独り歩きしがちだ。大元のキャラのフィクション性がおしなべて高いこともこの現象に拍車をかけるはずである。

VTuberというコンテンツは一種のリアリティショーである、とよく思う。リスナーが観ているのは現実の生々しい1人の人生であるが、それをエンタメとして消費している以上、リスナーはそこに何かしら物語を求めがちだ。
そうして、かなりの部分がいつの間にか他者によって紡がれた物語は、中の人のリアルな人生と大きく乖離しても何もおかしくない。
中の人は、そうしてかけ離れた2つの物語の間を行ったり来たりして、かけ離れた2つのアイデンティティを背負わないといけない。

こうした現象がVTuber特有かどうかは正直わからないが、ことVTuberに関しては顕著に確認できる現象かもしれない。

このあたりを考えていて強く脳裏に浮かんだのが、でろーんこと樋口楓さんのタイムカプセル配信である。
以前、自分はその感想をnoteに書いた。

(以降、この配信のネタバレを一瞬するので注意)

詳細はそのnoteを参照してもらうとして、自分はこの配信企画で語られたのは、人気VTuberとなった「樋口楓」とそのリスナーへの「樋口楓」とはかけ離れた生活を送っている中の人からのメッセージだと解釈した。

そもそもでろーんは、配信に映る「樋口楓」を指して「こいつ」と呼ぶなど、たまに「樋口楓」のことを他己として発言したり行動したりすることがある。彼女の1stワンマンライブ「KANA-DERO」の最後に映し出されたメッセージも、「樋口楓」と「私」が別個の存在と読み取れる内容で話題になった。

2019年1月12日、ライブ直後のでろーんのツイートより拝借

今更だけど、そういう意味でにじさんじライバーとしてはかなり特異な人なのかもしれない。

最後に、僕は今回最後のところで色々うんうん悩む中で、何度か委員長のオリジナル曲「ウラノミト」の歌詞を眺めていた。おかげでこの歌詞の解像度がかなり高まった気がしている。
いやぁ只野菜摘すごい。皆も歌詞を読もう。そして聴こう。VTuberの2重性を歌った曲として蓋し名曲である。

何だか変な締め方をしてしまったが、1人のVTuberファンとして、非常に良い示唆を得られた。良い秋の読書体験を得られたことに感謝しつつ、山野氏のこれからの活躍にも期待している。

ちなみにヘッダーの写真は本日読んだ『フィルカル』で、僕がお気に入りの、しずりん先輩こと静凛さんをイメージした公式ブックマーカーを挟んでいる。


参考文献

荒木奈美『ポール・リクール「物語的自己同一性」に関するノート:「物語(ナラティヴ)」を通して見えてくる「自己性(イプセイテ)」に関する考察』
札幌大学総合論叢

國枝孝弘『久米博『人間学としてのリクール哲学』第三部「物語的自己同一性」(2016)』
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