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自分探しは不要。今が自分だから。

フォロワーも少ない状態だが、早速talowを前面に語っていこうと思う。厚かましさはさておき。ひとつよしなに。

ここ半年以内のある日の友人との会話である。この友人と話す事は自身の思考・生活・働くを洗練させる。彼のお陰で感情の味わいが深くなった。本当にそう思う。名をYという。(今後も彼はここに現れるだろう)

Y「俺、高校の頃に友達にYっていつもそうだよねって言われるの何か違和感だったんだよね。俺は日々変わるのに」 

この言葉は日々の自身の思考に直結するものであり、驚きと嬉しさを覚えたのは今でも鮮明に覚えている。<誰であっても人は多面性を持つ、様々な顔がある。それがある種の健康性>であると僕も認識しているからだ。

ここで彷徨い人が現れることも。本当の自分とは何だろうか。大きな疑問と期待の荷物を背負い、発見の為に旅立っていく姿を見る事も珍しくない。

<自分は自分から遠い。自分にとって一番分からないのは自分>という考えの僕は、壮大な旅に出る事はほぼない。自分を知りたい、理解したいと思った時には、自分以外の誰かと話すようにしている。それが自己理解の最短経路であると確信しているからだ。

誰かの言葉で自分の側面に気づいていく。<あー僕はこの人からはそう見えているんだ。そういう自分もいるのかもしれないな>と。この繰り返しの中で自分という輪郭を形どっていくのだ。

相手の価値観や環境で自分の評価は変わると考えると、相手によってコミュニケーションが変わる自分がいる事は至極当然の事である。

むしろ誰と関与していても変わらない自分、ひとつの自分でいる事は、一貫性がある・自分軸が明確という格好の良さを通り越して病的・モラルを欠如しているようにも感じるのだ。

大切な事は自分という人間を創造・妄想する事ではなく、今の感情=自分である事ではないだろうか。そして、今の感情がどういった感情であるのかを丁寧に見ていくことではないだろうか。

<強い自分は不要である。今を大切に、楽しむ為に努力できれば、どんな自分でも肯定され、地に足はしっかりとついているはずだ。最終的に誰かに当てられる自分がいれば良いのだ>と心底思う。

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