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命、燃やせよ

1.でもオイラの生きた証なのです。

カツヲはバカだ。純度100%のバカだ。キツいことが大好きなのだ。

え?ドMなの?

そうなのかもしれない。考え方によっては自分の身体をいじめることが大好きという点で、むしろドSなのかもしれない。

ブラック企業で野垂れ死にそうですね(笑)

言わないでください。私が僅かに抱いている未来への不安のうちの一つなので。
"のたれ死んだ所で本当のふるさと"という優しい歌声が頭でこだましながら最後に見た景色が、パソコンと残業の山と同僚の目に染み付いたクマ、だなんて死んでも死にきれないので。

キツいことしてなにが良いの?

「生」を実感出来る!!!これに尽きる。しょっぱいものを食べると甘いものを求めるように、寒い所に行くと温かいものを求めるように、本屋に行くと便意を催すように、死にそうな状況になると「生」が際立つんだ。命が輝くんだ。魂の叫びが聴こえるんだ。オイラの生きた証になるんだ。

2.マラソンが大好き

カツヲはマラソンが大好きである。
と言っておきながら、最近は勉強の忙しさにかまけて全く走っていない。もっと言えば「大好き」と言うよりは「全くもって嫌いではない」の方が正しいとおもう。
と言っておきながら、いざ走り始めると
「かーーーークソ楽しい!!!!!きもちぇ~~~!!!クセになるぜ!!!」
とか叫び出してしまい、ヤク中だと勘違いされて通報されてしまったことがあったような気がするのだから、きっと「大好き」なのであろう。 

カツヲがマラソンを好きになったのは、小学3~4年生の時だったと思う。冬の体育恒例の「持久走」の授業で、クラスで2番目に速かったカツヲは
「あれ?案外オイラ体力あるんじゃね?」
ということに気づいた。たしかに放課後は毎日、ゲームをやりたい友だちのKを連れ出してサッカーをしていた。ときに「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と罵られながら体力尽きるまで走り回っていたことが功を奏したのだろう。
それからクラス全員に配られた、走った距離を記録する「マラソンカード」をセッセと進めることに昼休みを費やしていた。

気づけば、走り終わったあとの心臓の拍動に興奮を覚えていた。

えぇ、そうですよ。
興奮を覚えていましたよ。

これがカツヲと走ることの馴れ初めである。その後は中学で苦しんだり、高校で狂ったりしながら、なんだかんだである程度の体力を残したまま今に至る。

3.サイクリングが大好き

ここで言う"サイクリング"とは、「景色と風に包まれて髪をなびかせながら陽だまりのような笑顔で微笑む彼女」を伴う美しいものではなく、「ヘドロのような苦痛を好んで舌なめずりするような気概を要求されるもの」である。

カツヲと自転車の馴れ初めは小学4年生ぐらいの頃だったと思う。なんとなく友だちのKと自転車で遠くに行くことにハマっていた時期があり、その後徐々に距離を伸ばしていき"サイクリング"が本格的に大好きになった。
当初は風を感じながら景色を楽しむものだった"サイクリング"もいつからか気づけば自分の限界に挑戦するものになり、その結果『真夏の伊豆で塵になりかける事件』や『オンボロ君との吊り橋効果で狂う事件』を起こすことになる。(そんな事件たちはいずれ記事にするので楽しみにしててね) 

ただ、なによりもそんな事件を起こしていたときの自分は確かに生きていて、今でもその魂の興奮を克明に思い出すことが出来る。

4.歩くのが大好き

昔から歩くのが好きか、と言われたらその答えはNoだ。歩くのが好きになったのは大学生になってからで、ほんとについ最近のことである。

いわゆる'コロナ世代'として、大学入学と同時にオンライン授業に出鼻をくじかれたカツヲは、1年次前期は死んでいた。
1年後期より週一で学校に通えるようになったカツヲは、合法的に外に出れる喜びで、授業のある日の帰りは決まって途中で電車を降り、乗り換えする駅までの約3.5kmの道のりを歩いていた。半期かけて溜めた憂鬱を、大好きな音楽で洗い流しながら歩くそのコンクリートカーペットが心地よく感じ、恍惚な表情でヨダレを垂らしながら歩くカツヲは、さながら"ウォーキング・デッド"であった。

この頃は「音楽を聴くついでに歩く」という'目的'と'手段'の関係だったのだが、前述した『オンボロ君との吊り橋効果で狂う事件』以降その関係が、「歩くついでに音楽を聴く」というように逆転してしまった。その証拠に2021年10月には『100km離れた友だちの家まで歩く(歩こうとする)』という奇行に及び、途中で音楽を聴くことが鬱陶しく感じてしまった。あいも変わらず今も、人との約束まで時間に余裕があればめちゃめちゃ歩いている。

5.ナビゲーターは魂だ

絶対にカツヲの前世は旅人だ。
この記事を書いてみて改めてそう思った。魂の導くままに動いていたら、魂は叫びだし、オイラは「生」に満たされている。
今、己の魂の叫びが聴こえないのならば、そいつの導くままに。

命、燃やせよ

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