自分を縛っているのは自分自身だということが腑に落ちた

「感謝が足りない」

中学生のころ、年に数回しか会わない祖母にそう言われました。

どういった経緯でそのような発言になったのか、覚えていません。

その後、母が「感謝、反省、努力」と紙に書いて私の机に貼りました。

それは呪いの始まりでした。

その頃の私は良い子になる「努力」だけはしていました。

それに加えて、反省や感謝も加わると重荷がふくれ上がる気がしました。

大人になってからも、そのことをたまに思い出しては心がチクチクするのでした。

感謝

昨年、感謝したことをノートに書くという手法を何人かの人が紹介していました。

今までにもそういったノート術は見てきたはずですが、やっても変わらないと思ってあまり興味を持たなかったんです。

でも、紹介されていた手法は何に対しての感謝でも良いというのびやかなルールだったので、できそうだと思いました。

例えば、「たこ焼きが美味しくて感謝」とか「Netflixの番組が面白くて感謝」みたいな軽い感じで書いて良いのです。

「私だって感謝できるのだ」ということを証明したかったのかもしれません。

薄い小さめのノートを買って、1日に5つくらいずつ書いていきました。

例えば

・洗濯物が乾いて、ありがとう
・お腹が痛かったけど治って、ありがとう
・読みたい本がたくさんあって、ありがとう
・お菓子が美味しくて、ありがとう
・良いアイディアが思いついて、ありがとう

昨日と今日の「ありがとう」が一緒のものでもいいし、書かない日が3日くらい続いてしまっても、4日目にまた書いてもいい。

ゆるく気が向いたときに、ささっと書いていました。

転換

そんな中、一冊の本に出会いました。

「世界は贈与でできている」

タイトルは見たことがありましたが、ビジネス本だし、なんか難しそうかも。。と思ってスルーしていました。

noteの読書の秋イベントで編集者の方が紹介されていて、「贈与っていうのは見返りを求めないもの」という発言を聞いて、興味を持ちました。

読んでみてあれ?と思った箇所がありました。

何気ない日常の中で、あふれている無数の贈与(のありがたみ)は隠されています。  それらは「あって当たり前」であって、それが無ければ僕らは文句を言う。

私がノートに綴っているありがとうは贈与に気づくためだったのかもしれない。

先程例に挙げた「洗濯物が乾いて、ありがとう」について考えてみると、洗濯機にもありがとうです。先人が生み出してくれ、沢山の人たちが良いものに改良してくれ、日々使えている。そこに使う水だって、川から与えられ、水道管を作ってくれた人たちがいて、今でも整備してくれているから滞りなく、洗濯ができている。

そして、お日様が照らして乾かしてくれて清潔な衣服を保つことができる。

いやいやもう5Gの時代ですよ。洗濯機のこと大袈裟に言ってどうするの?と思う人もいるかもしれないのですが、ありがたがって損はなかったです。

少々大袈裟かもしれませんが、ありがたみに気づくことで、世界の見方が変わるような気がしました。

贈与

「世界は贈与でできている」では、自分の呪いに関しても詳らかにしました。

善意や好意を押しつけられると、僕らは呪いにかかる。  もちろん、その逆で、こちらから善意を押しつけてしまうと、相手をその関係性に縛りつけてしまう。

中学生のころ、私が祖母に言われた「感謝が足りない」という発言を、私は押し付けられたと思っていました。

あなたのために言っているのよ。

父や母に対しても、産んで育ててやっているのだから、もっと努力して、反省して、立派にならないとダメだと思われていると感じていました。

でも、ありがとうを日々ノートに書いてみると気づきました。

映画を観て面白いと思ったり、歩いて美しい景色を観に行けたり、おいしいと味わえる味覚があったり。今生きていることを感じられること自体が両親や祖母たちの贈り物なのではないか。

それは様々なモノやことのありがたみからたどっていったからこそ気づけたことでした。

充足

私は祖母や両親からの言葉を呪いだと捉えてしまっていましたが、彼女たちは本当に呪いをかけようとしていたのでしょうか。

自分ではない誰かの胸の内は知ることはできません。

贈与はそれと気づかれないように渡されるのだそうです。

祖母や両親の胸の内はわからないし、(例え聞いたとしても本当のことを言うかわからない)欲しい言葉ももらえなかったけど、先に述べたように渡してもらったものはあると思えます。

そう思えることで、前より充足感が得られます。

そして私は言葉を置き換えました。

「感謝、反省、努力」

から

「贈与、転換、充足」

感謝は押し付けらてするものではなく、ありがたみに気づいて、他の人にも渡していく。

反省にとどまらないで、他の思考を取り入れて転換していく。

充足感に重点を置き、努力を努力と思わないような活動をする。

こんな風に、ゆるいようでいて、自分の励みになるような言葉を選びました。

私はこの一連の流れから「自分を縛っているのは自分自身だ」ということが腑に落ちました。

「呪い」と捉えてしまっていたことも、自分で塗り替えてしまいました。

勝手だけど「呪い」よりは良いのです。

さいごに感謝

長くなりましたが、最後に感謝を述べたいと思います。

読んでくれて、ありがとう。

noteを作ってくれて、運営してくれて、ありがとう。

noteを書くことができて、ありがとう。

「世界は贈与でできている」という本があって、ありがとう。

素敵な本を書いてくれて、ありがとう。

編集してくれた人、ありがとう。

本屋さん、ありがとう。

本が読めて、ありがとう。

文字を教えてくれて、ありがとう。

文字を読んだり書いたりできて、ありがとう。

読んだり、食べたり、歩いたりして生きていて、ありがとう。

今、存在していることに、ありがとう。

お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、
存在させてくれて、ありがとう。

よし、戻ってきた!
















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