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文章を書くということは

自由に書いていいよ。好きなことを書いていいよ。個人のアカウントを持って発信するとは、そういうことだ。

客先との契約や受託して仕事を行うわけではないのだから、自分の思うように行って良い。そこに制限はなく、果てしない自由がある。

しかし、自由に書いたことが世の中に受け入れられるかは別の話だ。

自由に好きなことを書いて、たくさん「いいね」と言ってもらいたかったのに、少ない「いいね」を見た瞬間に不自由になる。

不自由を自由に変えるために、できるだけコスパよく「いいね」がもらえるように考える。そうして私はいつの間にか、承認のポイント稼ぎに参加していた。

自由になるはずだったのに。

そんな風に思っていたとき、ユニークな文章講座を見つけた。

「書くことを仕事にしていないけれど、文章を書いてちゃんと発信できる人を育てる」という趣旨のものだった。

まずは半年、続けてみようと思った。

その講座は評論家の宇野常寛さんが主催するオンラインサロン内で行われているPLANETS Schoolというもので、私が入会した2021年は毎月3000字程度の課題が出された。

授業は講義と添削の2つがある。添削編に関しては、実際に提出された課題からいくつかの記事が授業で取り上げられ、フィードバックされる。

全ての授業がオンラインで受講できた。

入会してすぐ閲覧可能なアーカイブ動画を見て、宇野さんの容赦ないフィードバックに震えた。

宇野さんご本人も「公開添削ならず、公開処刑」と言っていた。

なんだか場違いなところに足を踏み入れてしまったのかもしれないと思った。

最初の半年 

恥ずかしいことだけど課題に取り組むまでは、自分はある程度書ける人間なのだと思っていた。しかしそんな妄想はすぐに打ち砕かれる。

やってみてまずわかったことは、上手い下手以前に3000字書くことだけでも大変だということだった。

1500字くらいなら勢いで書けるけれど、その先が続かない。3000字かけて語るべき内容を選ぶことすらままならなかった。

それに、自分の日本語の下手さにもへきへきとした。

これらは講義の内容を復習してもすぐに取得できるものではなかった。でも、わからないなりに提出し続けた。

課題は、講義で取り上げられなくても、宇野さんおよびプロの編集者の方に必ず添削してもらえる。

フィードバックはことごとく良くなかった。指摘されていることは理解できるのに、次の課題で挽回できない。そんなことが半年間続いた。

とにかく出すということがいつの間にか目的になりつつあった頃、最悪なフィードバックを受ける。

「『喉が渇いたから水を飲んだら癒されました』くらいのことしか書かれていない」

震撼した。
そして泣いた。

なぜ悲しかったかというと、自分でも本当にその通りだと思えてしまうからだった。

辞めてしまおうか。

辞めても誰も困らない。今更3000字の文章が書けるようになったからといって何になるんだろう。そもそも活字を読む人って少ないし、これからはもっと減る気がする。このまま続けても上達するかわからないし。などという1トントラック分程の言い訳に、押しつぶされそうになる。

だけど、辞めてどうするの?

また不自由な承認交換ゲームを続けるの?

それが嫌だから学ぼうと思ったのではなかったか。

辞めても誰も困らないのは嘘だ。
自分が困る。

だったら続けるほかない。

気はのらなかった。文章を書く楽しさもわからなかった。

しかし、続けることが必要だったのだと思う。

一般論からの離脱

続ける覚悟をして1回目に出された課題は「好きなものについて書く」だった。

今回は根本的に書き方を変える必要があると思っていた。とにかくお手本になる文章を真似して書こうと決めた。

そのとき、宇野さんが書いた「久世橋のこと」という記事を読んだ。その文章は、取り立てて特出すべきことのない橋が宇野さんにとっては価値あるものだということが証明されていた。

私はこの文章を真似することにした。私にとって久世橋にあたるものはなんなのかを諦めずに探した。とても時間がかかった。

宇野さんのエピソードから自分のエピソードに変換する作業は、私にさまざまなものを思い出させた。幼少期によく遊びにいっていた男の子の家の庭、そこに植えられていたドーム状のこでまりの木、芝生に落ちる木陰。

 自己分析の一問一答で「幼少期に印象に残っている記憶は」という質問では「ない」と答えていたのに、この課題に取り組んでいるときは思い出すことができた。

庭を愛でるだけの美しい時間。それは私が持っていた独自の体験だった。

実際に庭を所有するということは、庭付きのマイホームを購入することを連想させる。

けれど私の場合、散歩した時に出会った公園や絵画の中にある風景を眺めているときも、庭を所有していると思っている。

私はこれに気づいて、喜び勇んだ。

個の再生

2021年、最後の課題は「なんでもいいから好きなことを書こう」だった。

私はその頃、安西水丸さんの絵に魅せられていて、自分でも真似て描いてみていた。

手描きの絵の良さについて書きたいと思った。

ただ良い点を並べるだけでなく、水丸さんの絵の何が自分を魅了したのか、また、描いてみてどういう心境になったのかを丁寧に思い出していった。

そうして、手描きの絵に興味を持ったきっかけまで遡っていく。すると自分がSNSの使い方について不満に思っている点が浮かび上がった。

誰に言われたわけでもないのに、機械的にカフェに出かけて写真を撮り投稿していた。ハッシュタグで行った店の名を検索すると自分の投稿した写真がどれかわからず、個が溶けていく気がした。

個性を取り戻すために取り組んだのが、手描きの絵だった。

手描きの絵であれば、写真とは別のものを残すことができる。単純な線だけで構成された絵であっても、自分の痕跡が残る。

それに自分の好きな絵を見ている時間と描いている時間は、インターネットから離脱している。たとえ、それがデバイスの中であっても。

文章にする過程で、このような発見があることに震えた。

言いたいことを証明できる

年が明け、2022年。この年からは宇野さんに代わり外部講師の方々が授業と添削を行うカリキュラムに変更された。

年明け最初の課題は「2021年に自分が体験したことを題材に書く」だった。

課題の注意点として「読者が読むに値することは何なのかを意識して書くこと」と告げられたのを覚えている。

個人的に2021年は、文章を書くことと絵を描くことの両方を取り組んだ年だった。そこから自分なりに得たものを書きたいと思った。

それぞれに取り組んでいる時の状態はどのようなものだったか、違いはどこにあるのか観察するように振り返る。

ふと、PLANETS Schoolの最初の講義で、吉本隆明が言及した「指示表出」と「自己表出」について思い出した。

言葉には、ごく説明的なものと、感情的なものの2つが存在する。

説明的な指示表出は、「東京は札幌より南にある」というような誰もがわかる事実を述べる場合の言葉で、感情的な自己表出は「ああ」と驚いたり「熱い!」といった自己が感じているものを示す。

絵にも同じことが言えるのではないかと思った。

実際に自分で描いてみてわかったことだけど、「これは水差しです」という指示表出で描いたものは、絵ではなく、標識になる。

私は標識を描いてしまったとき、とてもがっかりした。

誰が描いても同じに見えるもの
誰が書いても同じに読めるもの

そういうものを作りたくもないのに、作っていたことに気づく。

そこから、本当に描きたい(書きたい)と思うものは何なのかという問いと自分なりの回答を文章にした。

「言いたいことを3000字で証明する」という感覚が生まれているような気がした。

いつの間にか、書いているときに自由を得ていると思えるようになっていた。

読者に何かを残す

PLANETS Schoolを受講して、一年がたとうとしていた。

この時の課題は「特定の映像作品、書籍、音楽等のコンテンツについて、読者に「興味」を持ってもらうためのコラム」というものだった。

この課題には「そのコンテンツを未鑑賞の人」という想定読者も設定されていた。

コンテンツレビューは、去年も取り組んだけど非常に悪い評価だった。経験を積み、もう一度取り組むチャンスがきた。

作品選定は自由なので、ここ最近でもっとも印象に残った『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(テレビアニメシリーズ)』を題材にすることにした。

取り組む前のアドバイスとして「クライマックスはどこに置くかを考えて書いて下さい」と言われたのを覚えている。

この作品について自分が最も言いたいことは何なのかを考えた。大抵はそこまで考えきれないことばかりなのだけど、この作品はとても好きなので未鑑賞の人に本質的な魅力を伝えたいと思った。

作品の良いところはたくさんあるのけれど、フォーカスを当てる部分を定めるのが難しい。

主人公のヴァイオレットは、たとえ忖度が必要な場合であっても事実しか述べない。ほとんど無表情で空気が読めないのに、魅力的な人物だった。

人を慮って言っているセリフはどこにもないのに、彼女の言動や行動がとても響いてくる。

裏表がない代わりに、本心がある。

本心とは何なのか。それをフォーカスしよう。

私は本心をテーマにして文章を書いた。

評価は良かった。

この課題だけではなく後半の半年間、提出した課題の評価は全て良かった。

だけど少し怖くなっていた。

私はただ評価軸を「いいね」から「講師陣」に変えただけなのではないか。だとすると、誰かに評価さることから自由になれない。

でも、本当にそうなのだろうか。ただ褒められるだけに喜びを感じたのだろうか。

好きなものについて書いた文章では、「論点がオリジナル」と言われたことが嬉しかった。

2021年に体験したことを題材に書いた文章では、「描くと書くの違いはどこにあるのか考えさせられた」という言葉が嬉しかった。

コンテンツレビューでは、「読んだ後も本音と本心の違いを考えてしまった」と言われて嬉しくなった。

こう並べてみると、嬉しいポイントは共通していた。

それは「他者の中にないものが、新しく芽吹いたのかもしれない。」
ということだった。

きっとそれが嬉しかったのだ。

評価というのは他者によって行われるものだけど、どのような評価に重きを置くかは自分で設定できる。

それに気づいた私は「いいね」からも「他者評価」からも自由になり、歓喜に震えた。




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