庭を所有するということ

美術展でクロード・モネの作品「散歩」を観ていた。広い空と草はらと大きな木が落とす影。そこにモネの妻と息子が小さく描かれている。彼らは草や木と同じように日光に照らされて、自然の中に溶け込んでいる。そして、私は幼少期の記憶を呼び起こしていた。

幼稚園に通っている時だったと思う。実家の近くに同じ年の男の子Aくんが住んでいた。私は自分の家の近くにある狭い路地を通り、敷地を仕切る植木の隙間を抜けて、A君の家に遊びに行っていた。遊んでいたことより、Aくんの家の庭の方を覚えている。自分の家の庭とは違い、芝生がいつも綺麗にかられていた。幼少期の身体感覚ではとても広かったと記憶している。色とりどりの花が植えられているということはなく、芝生にこでまりという木が2本生えているだけの、こざっぱりとした庭だった。そのシンプルな庭を私はとても気に入っていた。こでまりの細い枝は株元から放射状に伸び、内巻きにしなる。5月になると、その枝に白い花をつけ、庭に白いドームを形成する。新緑の芝生に白い花のドームが出現した庭をとても気に入っていた。そのドームの中に入って遊ぶより、少し離れたところか眺めているのが好きだった。私は心の中でその庭を所有していた。

その時の私は、未来を考えることはなかった。そもそも、時間が未来に向かって進んでいることも知らなかった。生まれてから数年しか経っていないので、過去を振り返ることもない。知らないことが多かっただけといえばそうだけど、予定も悩みも何もかもがなかった。それが幸せであるとか自然に触れていて豊かなことであるとか、平穏であるということも考えようがなかった。庭を愛でる、ただそれだけをしている時間があった。

そして小学校に上がると、Aくんとも遊ばなくなった。喧嘩をして気まずくなったわけでもなく、それぞれが小学校に通い、勉強をし、新しい友達ができたからだと思う。

そして私が高校生の頃、家の近くに新しいマンションが建った。それはA君の家の敷地で、Aくんは家族と一緒にそのマンションに住んでいるらしい。そして私が出入りしていた植木の隙間は、コンクリートの壁で塞がれたことも同時に知った。私は一瞬だけあの庭のことを思い出し感傷的な気分になったけれど、すぐに英単語を覚えることや友人関係の悩みの方へ気持ちが向いた。

社会人になってしばらく経つと、私は止まっている時間が苦手になっていた。常に未来に向けて何かをしないと何かを考えていないといけないと思うようになった。誰かが仕事の話題すれば、それに比べて自分は頑張れていない、もっと違うことも学ばないと、とか。健康が大事だから、料理をもっとできるようにしないといけないとか。瞑想した方が精神が整って生産性が上がるから、頑張ってやらなきゃとか。自分で自分を急き立てていた。思考がどこにも着地せずに、常に動き回っているようだった。本当はそうしたいわけではないのに、なぜかやめられない。私は確実に消耗していた。

そんなある日、私は手帳の活用術を学ぶためにyoutubeを観ていた。手帳が好きな方の動画で、クロード・モネの作品が印刷されたステッカーが紹介されていた。私はすぐにamazonでそのステッカーを購入した。4x3 (cm)の小さな絵の中に風景が描かれている。私は様々な風景画の中に、かつて私が好きだった庭の空気を感じて驚いていた。「睡蓮」の水のゆらぎに、庭を照らしていた日光を。「春」の濃い影の中に落ちる木漏れ日に、こでまりが作っていた木陰を。「プルーヴィルの小麦畑の道」の風になびく小麦の穂に、庭で吹いていた風を。悠々と生えるポプラ並木に、庭の芝生の匂いを思い出す。あの庭に似ている構図など一つとしてないのに。

これまで他の画家の風景画や、誰かの撮った芝生の写真や、実物の小手毬を見て、あの庭を想起することはなかった。モネの絵だけが、私に庭を愛でていたあの時間を呼び起こしてくれた。

モネの絵のモチーフは、どれも輪郭が曖昧だ。木の枝や葉や、さらに人物の輪郭までも。モネは画家になりたての頃、その作風で酷評を受けている。しかし、輪郭を曖昧にすることで、モチーフ以外のもの、例えば光と影、風や香りなど、五感で感じる全ての瞬間を描くことができる。輪郭がはっきりしないのは、木々が風で揺れていたり、葉が湿った空気をまとっていたり、人も草木と一緒に光に照らされて自然と一体化していることを描いているからだ。目に映らないものを「印象」として描き出してくれているから、私はこでまりの庭の空気を感じることができる。

そして、モネは連作を多く描いている。例えば「積みわら」という作品は、こんもりと積まれている藁のかたまりをモチーフに固定し、季節や時間帯を変えて、光の効果を描いている。あと少しで日が沈む時間帯に闇をまとい始める積みわら。雪が日光を反射し白く発光する積みわら。朝の淡い光に包まれる積みわら。夏の終わりの夕日に照らされて濃い影を落とす積みわら。素朴な藁の集合体なのに、こうも表情が変わる。同じ場所を眺めることの魅力を連作をとおして教えてくれている。だから、私は庭を眺めていた時間を思い出すことができる。

モネの絵を観ているとき、思考は動き回るのをやめ、静かになっている。それは大変嬉しいことだった。私は、なくしてしまっていた「止まっている時間」を取り戻したのだ。私が本当は大事にしたかった時間を、モネは私が生まれるずっと前から、別の形で残してくれていた。それは不意に受け取った贈り物のようだった。そして私は今、この受け取ってしまった贈り物をまた別の誰かに渡したいと思っている。過去や未来に忙しく思考を動かしている人が、不意に足を止めて、今にとどまれるように。たとえ一度なくしてしまった時間を、別の形で取り戻せるように。

先日、美術展にでかけた。モネの「花咲く堤、アルジャントゥイユ」という作品の前で足をとめる。ダリアの花咲く草むらを前景に大きく配置させ、背景には煙が上がる工場地帯が描かれている。モネは急速に産業化されていく街の美しい部分を残してくれたのだと思った。変わりゆく街だけではなく、すぐに消えてしまう光や風も、絵の中にとどめてくれている。こでまりの庭はもう存在しない。だけど私はまたあの庭を所有している。


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