偽書・シオン賢者の議定書とは⁇(2)
『プロトコル』以前
『シオン賢者のプロトコル(議定書)』(以下『プロトコル』)が世に出る前も、ユダヤ人の世界征服という陰謀説を書いた文書はあった。
主なものを上げると、フランスのオーギュスタン・バリュエルの『シモニー書簡』(1806)。プロシャのヘルマン・ゲトシェの『ラビ講話(小説「ビアリッツ」の一章』(1868)。ロシアのヤコブ・ブラフマンの『カハルの書』(1869)。セルビア人のオスマン・ベイ(またはギブドリ・ザデことミリンガー)『ユダヤ人による世界征服』(1870年代前半)などである。
これらはいずれも妄想、小説(フィクション)、そして詐欺師のでっちあげた産物だが、その内容はコピーされ、他者の手で編集されて「陰謀を暴露する真実の証拠」のように扱われるようになった。もちろん、反ユダヤ的思考を持つ人々に・・・である。
そして、これらも『プロトコル』制作の材料になったのである。
『プロトコル』出現
『プロトコル』が最初に大衆の目に触れたのは1903年8月26日から9月7日、ロシアの反ユダヤ系新聞「軍旗」誌上で、短縮版という形で連載された。
「軍旗」では『プロトコル』の出どころは明かされず、ただフランスの文書を翻訳したとし、元は『フリーメーソンとシオン賢者の世界会議議事録』というタイトルの文書を『ユダヤ人の世界征服プログラム』と改題したとして発表した。
「軍旗」の編集長は反ユダヤ活動家のP・A・クルーシュヴァン。
クルーシュヴァンはベッサラビアのキシネフで、ポグロム(ロシア語で破壊を意味する。ユダヤ人に対する計画的集団暴力、殺戮、略奪、破壊活動をさす)を煽動し、その結果45人が殺害され、400人以上が負傷し、1300軒の家屋、店舗が破壊された。
『プロトコル』はポグロムの動機付けとして利用されたのだ。
1905年12月『プロトコル』の完全版が出る。『諸悪の根源━━ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか?フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜萃』に収録された。
この文書の校訂者は不明だが、歴史家ノーマン・コーンはベッサラビア出身の退役軍人、G・V・ブトミと推定している。
ブトミと前出のクルーシュヴァンは、極右の「ロシア人民連合(黒百人組)」の創設に関係している。
この団体は、社会主義者、自由主義者、ユダヤ人の虐殺を目的とする組織である。
その後『諸悪の根源』は、今度はブトミの名で新版『人類の敵━━シオンの中央事務局秘密書庫から持ち出された議定書』と改題されて出された。
その後1906年、07年にも、抜萃版、廉価版が出ている。より多くの読者に広めるためだろう。
これまでの本はすべてペテルスブルグで発行されている。
そしてセルゲイ・ニルスの『卑小なるもののうちの偉大━━政治的緊急課題としての反キリスト』の第三版に『プロトコル』が収録されて出版された。
ブトミ版と同じ1905年である。(初版と第二版に『プロトコル』は収録されていない。)
ニルスは神秘家で、この本を出したころは宮廷の覚えがめでたかった。皇帝一家は神秘主義に傾倒していたのだ。
第三版はニルスが皇帝ニコライ二世に献上する目的で印刷されたらしい。
大量印刷されたクルーシュヴァン=ブトミ版と違って印刷も丁寧で、皇帝好みの神秘的記述の中にわざと『プロトコル』が挿入されていることも裏付けになるという。
ニルス版の『プロトコル』が世界的に有名になったのは、若干内容が増補されて『それは間近に来ている━━反キリストが来る。悪魔の地上支配が迫っている』と改題された1917年以降のことだ。
1917年はロシア革命がおこった年だ。皇帝一家は処刑された。
そして1914年から続いていた第一次大戦が終結したのが1918年。ドイツでも革命がおこり、皇帝が退位。ドイツが降伏。また、オーストリアも降伏して、皇帝が退位した。
フランス革命に始まり、ロシア、ドイツ、オーストリアの帝政の終焉。19世紀から20世紀初頭にかけて、古い権力体制が下からの圧力で壊され、政治支配の構造が大きく転換した。
極右の反ユダヤ主義者はこの転換をユダヤ人(シオンの賢者)が裏で暗躍しているのだと決めつける。自由主義者、社会主義者、そしてなぜかフリーメーソンを操り、王制を破壊するのはユダヤ人である。その証拠が『プロトコル』だというわけだ。
つづく
参考資料
シオン賢者の議定書 ユダヤ人世界征服の神話
ノーマン・コーン著 内田樹訳 ダイナミックセラーズ
歴史読本臨時増刊’86-9 世界謎の秘密結社
「フリーメーソンの全貌~ロシア革命、国際ユダヤ」新人物往来社
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