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【ぶら近所】内田秀五郎翁像

 都立善福寺公園(杉並区善福寺3-21-25)は幼いころから(もしかしたら赤ん坊の時から)よく遊びに行き、今でも散歩に行く場所だ。善福寺池はうえの池としたの池の二つの池があり、そこから善福寺川が流れ出ている。

 上の池の片隅の、池淵の遊歩道からそれた、少し地面が高くなった一角に、一つの銅像が立っている。遊歩道からも見えることは見えるが、階段を上がってわざわざ像を見に行く人は少ないようだ。

 小さいころ友達と銅像を見上げて、これは誰だ?となった。私は銅像は偉い人だろうから、総理大臣(当時)の佐藤栄作だろうというと、そばにいた大人に「違うよ」と否定された。でも、似ているんだけどなぁ…。と、その時は思っていた。

寄って見ると全然似てない
(当たり前か)(^o^)ゝ

 銅像は内田秀五郎ひでごろうという人だとその時教えてもらったと思うが、その内田さんがどういう人なのかは教えてもらえなかったと思う。多分、その人も知らないのだ。(その大人が誰だったのか、今は思い出せない。友達と一緒に体操を教えてくれたオニイサンかもしれない。)

 像のそばには碑文もあって、そこに内田秀五郎の説明もあるのだが、文語調の上に句読点もなく、とても読みづらいので、最初の数行でくじけてしまう。

草茫茫で読めませんが…

 明治九年[1876]生まれで、三十歳の時に全国最年少の井荻村の村長になったこと。大正十年[1921]に村内に電灯を敷設したこと。昭和七年に井荻水道を完成させたこと。昭和十年[1935]に十年の年月をかけて、全国初の大区画整理(それまで細く曲がりくねったり、途中で途切れていた道をまっすぐ通したり整えたり)をしたこと。また、府政都政にも携わり議長を務めたことなど、数々の功績があり、昭和十九年[1944]には藍綬褒章も授与されたことなどが記されている。
 この像は内田氏の喜寿を祝って作られたという。

昭和二十八年六月建之

 善福寺公園にこの像が立てられたのは、内田氏が善福寺風致委員会を作り、東京府と合同で池の周りに遊歩道を整備し、池のしゅんせつなどして公園として整備に力を尽くしたからと思う。善福寺公園は昭和三十六年[1961]に開設された。

 そのほかの業績としては、当時貧しかった地元農村の活性化のために、たくあん作りを奨励した。
 省線(JR中央線)に、西荻窪駅を誘致。
 中島飛行機東京工場を誘致。
 西武鉄道村山線(西武新宿線)に、下井草駅、井荻駅、上井草駅を誘致。
 桃井第二~第五尋常小学校新設。
 府立農芸学校(都立農芸高等学校)を誘致。
 善福寺池を水源とする水道施設を作る。
 新宿に青果の淀橋分場(淀橋市場)を開設。等々…。

 なお、中島飛行機は有名な武蔵野工場ではなくて、青梅街道の荻窪にある工場のほう。中島飛行機東京工場は戦後はプリンス自動車や日産自動車の工場に変わり、今は工場は無くなったが日産自動車の販売店だけが残っている。(今もバス停留所名は日産自動車前である)
 
 淀橋市場は今でも現役で、敷地内には内田秀五郎の銅像もあるという。

 善福寺池に隣接した水道局の浄水施設は今でも残っているが、現在は取水を停止し、施設内の曝気槽は雑草におおわれている。

水道施設の一部
年々ボロボロに朽ちていく

 内田秀五郎は昭和五十年[1975]に90歳で亡くなった。

 あら、筆者が「この人佐藤栄作?」とか言ってた頃は、まだお元気だったんだわ。これは失礼いたしました。


井荻村(井荻町)…… 下井草村、上井草村、上荻窪村、下荻窪村が合併し     てできた。井草の井と荻窪の荻を合わせた名称。

おまけ
周囲にたくさん生えてたシメジっぽいキノコ
ナラタケらしい(食べる勇気は…ない)


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