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呪術都市江戸③

 呪術を使った伝統的都市守護を江戸幕府も採用してる。その痕跡は今でも見ることができる。

江戸の鬼門、裏鬼門とは?

 鬼門という言葉を聞いたことがあるだろうか。家相占いなどで、中心から見て東北(艮、丑寅)の方角に、トイレなど不浄な場所を作るとよくないとか、井戸は掘らないとか、門を作らない方がよいとかいう、その丑寅の方角が鬼門である。

 「」とは中国では死霊のことだ。だから死んだ肉親やご先祖様も「鬼」なので、必ずしも悪いものばかりではない。死者の過去帳を鬼籍といい、死んだら「鬼籍に入る」ともいう。
 鬼門はその死者が入ってくる方角なのだ。
 古代中国では十二支は十二の月にも配当されていて、丑の月は年末、寅の月は年始にあたる。年越しの祭事として、厄を払い春の陽気を迎えたのだという。(日本では節分の行事に変化している)つまり丑寅とは物事の境目なのだ。だから魔も入りやすい。

 日本では独自に進化した陰陽道と神仏混交の思想により、鬼門の方角から災厄(疫病、天変地異、火災、動乱など)が侵入するという考えが広まり、都市、都城を作る際には鬼門を守護する神社仏閣を作ったり、鬼門除けの呪物を置くなどしている。

 また南西の未申(坤)は裏鬼門というが、これは日本独特の呼び方で本来は「人門」という。この裏鬼門も鬼門ほどではないが、良くないものが侵入して来る方位と考えられている。人門は別名を病門ということから、不吉と考えられたのだろうか。

 家康は八白の寅年生まれで、陰陽道では艮と坤の両方角に弱点があるということで、鬼門だけでなく裏鬼門も寺社でがっちりと封じた。

 家康はまず浅草寺を祈願寺に定め、鬼門封じの寺とした。
 浅草寺の創建は推古天皇の時代。円仁(慈覚大師)が中興したという天台宗の古刹である。家康の死後は東照社も設置された。

 また家康は筑波山の知足院中禅寺を鬼門守護の祈祷所とした。幕府に変事がある時は、中禅寺でも祈祷が行われたのである。

 神田明神は大手門の前にあったが、将門の首塚だけを残して外神田に遷座した。ここも鬼門の鎮守となった。

 家光の時代になると、天海僧正が上野忍が岡に東叡山寛永寺を創建。ここが新たな鬼門除けの祈祷所になった。
 東叡山は元々、川越の喜多院の山号だった。天海僧正が住職を務めていたのだが、より江戸城に近い寛永寺を新たな東叡山にしたのだった。上野の山全体を比叡山延暦寺に、不忍池を琵琶湖に見立てたのは、延暦寺が京の鬼門を守護する役割りを担っていたからである。
 東叡山とは東の叡山という意味が込められている。

 寛永寺が出来たことで、浅草寺の祈祷所という役割は薄まった。火災で東照社が焼失した後、幕府は再建を認めなかったことからも、祈祷寺としての役が寛永寺に移ったことが分かる。しかし、浅草寺には別の江戸守護の役割があると思う。そのことについては別に書くつもりだ。

 裏鬼門を見てみよう。日枝山王権現は最初、江戸城内の紅葉山にあり、将軍家の産土神としてあがめられた。日枝神社は比叡山の地主神日吉神社と同じ大山咋神を祀る。猿が御使いとされ、江戸時代の山王祭の山車には猿がついていた。災難が「去る」という言葉にかけているとか。因みに神田明神の方は鶏で、こちらは福を「取る」という意味らしい。江戸っ子は洒落好きなのだ。

 徳川家の菩提寺、芝の増上寺も裏鬼門にあるという。しかし、元々あった麹町貝塚(現在の国立劇場付近)の方が、より裏鬼門に近い。芝では南により過ぎているように思う。これにはやはり別の事情がありそうである。

 江戸城から見て、鬼門と裏鬼門にもっとも位置的にふさわしいのは、浅草寺━━日枝神社ラインだ。二つを線でつなぐと本丸の上を通り、艮と坤の範囲内にある。

 ある本には、寛永寺と増上寺を結ぶラインも江戸城を通り、寛永寺、浅草寺、江戸城を結ぶ三角形は艮の、日枝神社、増上寺、江戸城を結ぶ三角形は坤の範囲に収まるとあったが、実際は寛永寺と増上寺のラインは江戸城の東側をかろうじてかすめているだけなので、少々無理があるように思う。

 それよりも、寛永寺━━増上寺ライン上に、神田明神と将門の首塚があるというのが面白い。まるで二つの寺が将門の霊をがっちり法力で抑え込んでいるように見えないだろうか。

 ところで神田明神は将門の胴体を祀っているという伝説がある。将門は藤原秀郷(俵藤太)に討ち取られた後、首は京に送られたが、胴体の方は常陸国猿島郡(現茨木県岩井市)の神田山かどやまに葬られた。京で獄門にされた将門の首級を、関係者が密かに取り戻し、江戸芝崎村の阿波神社(首塚のそばにかつてあった社)の境内に葬った。さらに、神田山の胴と一緒に祀ったのが神田明神なのだという。

茨城県岩井市神田山延命院
将門の胴塚

 とすると、家康は将門の首と胴体を再び別々にしてしまったということになる。将門の祟りを恐れるならば、しっかりと法力で抑えなくてはならない。
 坂東最大の大怨霊の力を制御するため、首と胴を離れ離れにし、あえて増上寺を南に移動させたのか。更に、両寺にはどちらにも東照宮がある。家康が将門の霊をしっかりと見張っている構図である。
 神田祭では神社を出発した神輿は大手町の将門の首塚を目指す。二年に一度、将門の首と胴は一つになり、御霊は活性化するのである。

 『慶長見聞集』に、江戸城の堀から日本橋に流れる川を境として、その東北を神田明神の、西南を山王権現の氏子とするとある。つまり、天下祭とは江戸庶民が艮と坤に別れて氏神を祀り、そのパワーで江戸を守護する祭と考えられないだろうか。
 


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