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於岩さんが生きてた頃━━江戸時代始めました⑤

 元和九年[1623]徳川秀忠と家光は上洛し、家光が三代将軍になりました。
 翌年改元があり、寛永となりました。日光東照宮陽明門が完成しています。

 同じ年、日本橋(現丸善の辺り)に猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が猿若座(中村座)を創立しました。これが常設の芝居小屋の最初になります。
 女歌舞伎もある時代です。現在私たちが知る歌舞伎とはだいぶ違っていたことでしょう。
 勘三郎は猿若舞を考案し、それが評判になり将軍家の前でも舞ったということです。

 寛永二年[1625]上野に寛永寺が創建されました。開山は天海僧正。江戸城の鬼門を守護し、芝の増上寺と共に将軍家の菩提寺となりました。

 寛永六年[1629]紫衣事件が起き、大徳寺の沢庵和尚らが流罪になります。幕府の権力が朝廷(天皇)の権威を上回ったことを示す事件でした。       

 同じ年、女歌舞伎が禁止されます。

 江戸城の内郭工事では、門や枡形が構築され、西丸庭園が作られました。庭園のデザインは小堀遠州が担当しました。

 そしてこの頃、神田上水が完成します。先に、江戸の用水として溜池のことを書きましたが、溜池の水は主に城の南西地域に使われました。
 北東地域はどうしたかというと、小石川上水というのがありました。家康の命で大久保藤五郎が慶長年中に引いたといいます。
 小石川は上流を谷端やばた川といい、板橋区要町の粟島神社が水源です。小石川は現在は暗渠ですが、後楽園の辺りで神田川と合流しています。

 小石川上水がどのように江戸市中に給水されていたかわかりません。小石川上水については不明なことが多いのです。
 小石川に加えて造られたのが神田上水です。神田上水は井の頭池、善福寺池、妙正寺川を水源としていて、関口(文京区)の大滝橋のあたりに堰を作り、水を素掘りの水路で水戸徳川家の屋敷(後楽園)に通し、そこからは懸樋で江戸川(神田川)の上を渡して、その先は土中の石樋や木樋(水道管)で江戸市中に給水しました。
 余りの水は江戸川に流しました。
(ここでいう江戸川は、現在東京都と千葉県の境を流れる江戸川とは違います。現在神田川といっている川のことで、関口から下流を江戸川と称し、飯田橋から下流を神田川と称したと言いますが、その呼び方や境界はあやふやなところがあります)

 於岩さんが生きていた時代、まだ玉川上水、千川上水は在りません。

井の頭池
井の頭という名は家光がつけたという
井の頭の水源「お茶の水」
家康が水質がよいことを褒めて「お茶の水」と呼んだという伝説がある
七井不動尊
井の頭池は七つの湧水があったことから七井といわれた
井の頭弁財天
手前の灯篭に日本橋と刻まれている
天保年間の寄進
善福寺池
善福寺川の水源
古名の「おその井」は源頼朝がつけた


東京都水道局の施設
善福寺の地下水を取水する施設で、昭和初期に造られた
現在水道水としては使われていない

 寛永七年[1630]儒学者林羅山は上野忍岡(現上野恩賜公園)の自邸に学寮を開設しました。最初は林家の私塾でしたが、後に幕府の昌平坂学問所(文京区湯島)に発展します。

 同じ頃、台東区小島の辺りの沼地を埋め立てて、三味線堀をつくりました。三味線掘は隅田川を往来する伝馬船の溜り場でした。建築物資や農産物などが運搬されました。

 寛永八年[1631]町奉行所がつくられました。南町奉行所はJR有楽町駅前、北町奉行所は丸の内トラストタワーN館の前にありました。
 時代劇で町奉行所の与力、同心を「八丁堀の━━」と呼んだりしますが、これは寛永十二年[1635]八丁掘りにあった寺を浅草に移転させ、跡地を町奉行配下の与力、同心の組屋敷にしたためです。

 この同じ年、参勤交代制が定まりました。既に江戸に各藩の屋敷がありましたが、制度化されたことで江戸の人口は格段に増えたことでしょう。
 この頃の江戸の人口は推定で二十万人以上だそうです。

 寛永十年、十二年[1633,1635]と、段階的に鎖国令が出されました。長崎以外に外国船が入港することは禁じられ、日本人の海外渡航や帰国も禁止されました。
 老中若年寄の職制が規定され、寺社奉行が置かれるなど、幕府の行政組織もかなり整いつつありました。

 寛永十二年[1635]二の丸を拡張し、逆に三の丸を縮小します。

 寛永十三年[1636]寛永通宝が鋳造されます。日光東照宮が完成し、箱根関所法度が制定されました。
 ポルトガル人が出島に移動されました。(オランダ人は別)

 そしてこの年、田宮於岩さんは亡くなりました。

 於岩さんが亡くなった時点で、まだ四谷見附から飯田橋にかけての外濠、赤坂見附や真田掘や弁慶掘は完成していません。

元和六年頃[1620]

 外濠が完成するのは寛永十六年[1639]です。

 於岩さんの死後の江戸城はどう変わったでしょう。
 寛永十五年[1638]家光は天守閣と本丸を更に豪華に建て替えさせます。
また江戸城の紅葉山に書庫が作られました。
 かくして大江戸はほぼ完成の域に到達しました。

万治二年頃[1659]
完成した大江戸

 しかし、明暦の大火(明暦三年[1657])は、江戸の町を焼き尽くし、江戸城天守閣も消失してしまいました。

                               つづく 


参考資料

東海道四谷怪談    郡司正勝           新潮日本古典集成
四谷怪談祟りの正体  小池壮彦                         Gakken
新釈四谷怪談     小林恭二              集英社新書
江戸開府 日本歴史シリーズ11               世界文化社
地図・図録・年表 日本史 笠原和男            山川出版社
歴史街道平成元年9月号「江戸の町づくりは埋め立てから始まった」    PHP
「水」が教えてくれる東京の微地形の秘密  内田宗治 
                        じっぴコンパクト新書
江戸の川あるき    栗田彰                 青蛙房
風水先生 地相占術の驚異  荒俣宏              集英社
江戸の陰陽師 天海のランドスケープデザイン  宮元健次   人文書院
江戸切絵図                       別冊歴史読本
切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩          人文社           



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