雑記と私#44:”読書感想文”という無駄で無意味な”苦行”
夏休みの宿題でも屈指の苦行といえば、
やはり『読書感想文』だろう。
私は昭和世代であり、かつ子供もいないので
今の時代の夏休みの課題というものは今ひとつ
わからないのだが、この令和の世にもこんな
馬鹿げた風習はまだ残っているのだろうか。
別に「感想文を書きましょう」という課題
そのものを否定するつもりは毛頭ない。
問題はその”課題の出し方”だ。
「本を読んでその感想を400字詰め原稿用紙に
○枚以上書きなさい。」
私の頃は小学校低学年からこのような宿題が
出されていた。今はどうなのだろう。
それにしてもなんという雑な課題であろうか。
ほぼ生徒に「丸投げ」である。
思い出していただきたいのだが、みなさんは
学校で”読書感想文”を具体的にどのように書けば
いいのか、授業等で習った覚えはあるだろうか。
少なくとも私は記憶にない。
ただ「書け」、それだけだ。
感想文を書かせる狙いは
この2点にあると思う。
であれば、もっと具体的に”問題”を設けて
やることでそれらを生徒たち自身に気づかせ、
その理解度を深めるやり方があるハズだ。
もし私が教師で生徒たちに感想文を書かせるので
あればこのようにするだろう。
まず原稿用紙などは使わない。
代わりにプリントを用意する。
そのプリントは感想文の対象となる作品を観たり
読んだりする前に一度目を通すように指示しておく。
そして感想文の対象だが、本でも映画でも
マンガでも何でも構わない。
とにかく何かしらの物語であればOKとする。
プリントの内容(設問)は例えばこんな感じだ。
まず読書感想文というが、そもそも何の興味も
ないような作品(特に感想文に学校指定の図書が
あるようなパターン)を読んだとして、それを
しっかりと頭に入れることが出来るだろうか。
ピーマンやブロッコリーが嫌いな子がそれを
よく噛んで味わって食べるわけがない。
なるべく少ない回数咀嚼してあとは飲み込む
だけだろう。
それで読解力など身につくとは思えない。
ならば始めから好きなモノ、興味のあるモノに
触れてもらって、その作品をしっかりと堪能して
もらうほうがよほど意味がある。
そのうえで予め「こういう事を後で尋ねます」と
設問内容を見せておくことで、どういう風に作品と
向き合うのかを自分たちで考えさせておくのだ。
トンカツ揚げました、さぁ食べなさい。
といって切り分けもせずに丸々1枚お皿に
乗せたりはしないだろう。
こうした準備も自ら行うように仕向ける。
ここまでくればあとは食べた料理の感想を
聞くだけだ。
トンカツよりチキンカツのほうがいい。
ソースはタルタルのほうが好き。
キャベツはマヨネーズたっぷりで。
次はカレーライスが食べたい。
・・・一家団欒にも花が咲くというものだ。
こうして読解力(理解力)を身に付ける素地を作り、
そしてそれを自らの言葉で言語化出来るように
働きかけてやるのだ。
好きな作品に対してとてもプリント1枚では
収まらず、裏までびっしり書いてくる子も
いるだろう。
あるいは設問とは違うことを自分なりに表現する
子も出てくるかもしれない。
大いに結構。設問はあくまで感想文を書きやすく
するための目安でしかないのだから。
教育というのは本来こうあるべきではないか。
最初から勉強が好きなんて子は稀だ。
だからこそそこにどう向き合わせ、興味を持たせ、
「勉強って面白いんだな」と思わせるのか。
半世紀生きてきてようやくわかってきた気がする。
四面四角の教育委員会にただ押し付けられている
ような今の日本の教育はどうにも好きではない。
とにかく「推し着せがましい」のだ。
もっと自主性を持たせないと、大人になって社会に
出てもメモの取り方ひとつわからないような
社会人が量産されるだけだ。
(事実現場でそんな光景を目の当たりにしている。)
ここは日本。我々は日本人だ。
日本語ほど複雑で会得するのが難しい言語は
世界でも珍しい。
だからこそそんな「美しい母国語」を小さい頃から
しっかり身に付くように導いてやるべきだと
私は思うのである。
随分と偉そうな言葉を並べ立ててきたが、
私が宿題をちゃんとやっていたのは小学校だけ。
中学以降は「勉強は学校でやるもの」と割り切って
家では予習も宿題もなーんにもしなかった。
それでも授業さえちゃんと聞いていれば案外
どうにかなったりするものである(笑)。
良い子はマネしないでね。
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