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【趣味】【映画と創作】

最近映画をよく見るんです。
Twitterで流れてきて面白そうだと思った作品や、自分が戯曲を書く上で入ってくる要素・描写のある作品、各種サブスクでラインナップされてるもので面白そうなもの。そういうものを貯めて貯めて、気が向いたら観る。しかもわりと衝動的に。
それが楽しいです。

この記事は「私的、なぜ映画を観るのが楽しいのか」と私の創作談義で終始しております。
それでも良ければどうぞ読んでください。

直近で観たもの。

さて、直近で観たものは(5~6月)

・犬神家の一族
・ラストナイト・イン・ソーホー
・羊たちの沈黙
・パルプフィクション
・来る
・きさらぎ駅
・神は見返りを求める

です。
また今月摂取した作品シリーズで紹介するでしょうけど、「来る」がダントツで好きでした。
パルプフィクションはサントラが好き。
「神は見返りを求める」は胸糞でしたねえ。また書きます。


【私見】なぜ映画を観るのが創作にとって良いことなのか。

さて。

時期によって偏りはあるものの、面白い映画に触れるほど次はこれを観よう、もっと知りたい、という心理になります。
映画を観ることは良いことですね。何が良いかって
・非日常の体験
・映画音楽/サントラとの出会い
です。

この2つの事柄は私が創作を行う上で非常に大切だと最近深く実感します。では私にとってなぜ非日常の体験が大切だったのか。
最近発見した素晴らしい文章とともに分析しましょう。

「戦場の体験がなくては先頭の場面は書けない。」「自身、兵士として戦争へ行ったことのない作家の書いた戦争ものというのを、ぼくは信用しない。」云々。つまり「兵隊の戦場のことだけは、自分で体験してみないことには分からない。あの生活はアナロジーがきかない」

再録『芸術とことば 作家の内部—自己凝視—』70頁ー田村泰次郎

※アナロジー・・・ある事柄をもとにほかの事柄をおしはかって考えること。(コトバンク)

それは、いいかえれば、もとになる体験が作家その人になくては、それはフィクションがフィクションにならないで、ただのウソになってしまう、ということのようです。

再録『芸術とことば 作家の内部—自己凝視—』70頁

まさにこれなのです。
基本私は自分が思ったことや、体験したこと、自分の理解が及ぶ範囲のことしか書けません。いや、ファンタジーでもなんでも書けないことはないんでしょうが、ここで言われている通り「フィクション」ではなくただの「うそ」になる恐れがあるのです。
しかし映画を観ることで、実際に体験できなくとも、少なくともあらゆるシーンの解像度が上がります。


・犯人に追われるときの緊張感
・人に明らかな悪意を向けられたときの居心地の悪さ。視線。表情。
・治安が悪い場所の生活
・その時代の洋服、街並み、ことば

これらは、しっかりと考証され、映像化されたものだからこそ信頼に足るものです。
言うなれば私は映像を見てその場所・感情の追体験を行うことにより、自分に足りない経験をしようとしている——追体験を行っているのです。
もちろんそれでも、本当に、現実に、その場や感情を体験している人からすればまったく浅い体験かもしれませんが、自分の中に体験の土台があるだけでも違うだろうと私は思います。


そうした体験をたくさん日ごろからストックしておくことが、より自身の創作活動を充実させるうえで大切なのだと思います。私の場合はですがね。

創作と音楽

ではそこからどうやってストーリーになるのか。
私の場合、音楽がなくては考え付きません。
これまでを振り返っても9割くらいは音楽の助けがあってから、ストーリーというか、自分の体験の土台に色が付きはじめます。

映画・ドラマ・アニメを見てサントラを聴くまでがセットだと思っています。
最近見た作品のサントラだろうが、昔見た作品のサントラだろうが、それも経験ですので、どっかから引っ張りだしてきて、それが自分の中にあるストーリーになりそうなものとがっちりかみ合ったときにその世界が一気に広がります。
この素晴らしい文章も言っております。

作家が自己の体験をこえたところに文学が成り立つ、といわなくてはなりません。
体験をこえたところに文学が成り立つ、ということは、しかし体験をはなれて文学が成り立つ、ということではないでありましょう。体験をはなれては創作も鑑賞も成り立ちはしません。ハッキリそういっていいか、と思います。

再録『芸術とことば 作家の内部—自己凝視—』70頁

あくまで私の解釈でこれを引用していることをどうぞご了承ください。
体験するだけではなく、それを土台に、糧に作品は成立するということだと思います。
「こえる」と「はなれる」では大きくニュアンスが異なるでしょう。
ですがそれです。
その体験からしか連想されない物語があり、その体験から離れてしまってはそれはもとの体験までさかのぼる道が絶たれてしまっている状態だと考えます。
ですから、話は飛びますが、私はどうして人がその作品を書くに至ったのかその根底を深く知りたいと思うのです。
個人の体験がどこかしらにはあるはずですから、それを知ることでさらに私自身の体験が深まり、さらに創作する先が広がるというものです。


まとめ

映画の話をするつもりが、気づけば自分の創作談義になっていました。
しかし先輩方に教えて頂いた映画の分析方法・視点は非常に面白いものだったのでまたどこかで紹介したいなあと思ってます。

こちら
素晴らしい文章。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakutokyoiku/1988/146/1988_KJ00002408601/_pdf/-char/ja

あーあとこの論文面白かったです。

「映画の会話に現れる男女ことばの調査と分析」
1950-65年/70-85年/90-03年までの3種類の映画内の言葉遣いを分析し、戦後日本における日本語の無性別化の変遷をたどる・・・みたいな調査論文です。面白かった。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/49613/files/12788

曹春玲.「映画の会話に現れる男女ことばの調査と分析」.西日本言語学会.2006,35巻.p115-124

これ参照程度に載せます。
作品の分析指標。
ヒーローズ・ジャーニー

次はこれについて書きたい!
創作談義も!

ではでは。
創作談義はなんぼあってもいいですからね。


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