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物語の復権

美大や専門学校なんかに通っていると専門的な技術や技法はあって当然、美的要素は自然と付与されるものだとされる風潮がある。それは惜しくも普遍的とは言えないものだ。生産されるものの多くはそうしたハンディキャップを持つわけで、narrative物語性を拡張することが課題とされる。例えば筆触一つとっても絵を描いている人、筆の扱いを知っている人でないとそうした心地よさや凄みや緊張感や面白さは伝わらなかったりする。実践知にしろ、理論知にしろ受け手が感じ入るのは作り手の1/10程度と肌感覚としてはある。しかしそれを引き上げてくれるのが物語で、全ての興味や表象の中心に存在し多くの敷居を取り払ってくれる。日本の音楽や美術がそれ単体で海を渡るのが困難であるのに対し、物語を伴ったアニメや映画が国境を越えやすいのはそのためだと考えられる。世界進出をする際に言語の壁が問題となることがあるが、それは物語に比べれば些細なことではなかろうか。

制作が煮詰まるときは大抵その物語が乖離している場合がほとんどだ。コンセプトや技術技法、評価や需要などは付加価値に過ぎない。私も制作は物語ドリブンであることに最近ようやく気がついた。今思い返せば、幼少の頃からレゴブロックで何かを形作るのは最後に作劇をするためだった。漫画を描いていたのは絵を描くよりも感動を作りたかったからだ。高校の頃の油絵は群像劇で世界を創造し、悦に入るのが何よりだった。

絵画を本格的に専攻するようになってから、そうした物語的な要素から遠ざかることが増えた。ファインアートの世界では評価軸が異なるためだ。ちなみに似ているようでコンセプトと物語は別物だ。であるからして、そういったスタンスで自分が今後一生絵を描いて暮らしていくことを想像したときに耐え難いと直感をする。抽象画や花鳥風月や美人画では満たされないことを知っているのだ。

物語は普遍だ。聖書や神話、民話、伝承、昔話など訓戒や歴史などを大多数に浸透させるための最も有効な手法だ。それは例え読み書きや知能が不自由であっても受け入れられるものだ。これをおろそかにしては絵画の拡張性を損なうと個人的には考える。ものづくりをする人は今一度、西洋絵画における聖書と絵画の関係性から学ぶべきことが多くあるように思う。

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