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コンプレックスを生み出す仕事

ありがたいことに幼少期から歯科にはよく通っており、矯正も行なっていたがその頃から顔がよく歪みがちだった。姿勢が悪く、勉強したり絵を描いたりとデスクワークが多かったので作業中、右利きで手元を覗くために顔が左側に傾いたものだ。すると顎の位置が左下にずり落ちてくるようになり、奥歯がずれて噛み合わせも左に偏るため顔全体で見たときの水平垂直も崩れてくる。
そうした容姿を気にすることが今まで全くなかったのは、一律の制服や髪型でよく、顔採用がなかったためだ。高校も大学も必要な能力を修練し結果を出すことが全てだったが、こと就活や社会で活動していくにあたり、容姿の配分は増え、40歳を過ぎると自分の顔に責任を持てとまでいわれるようになる。ここに潜在的なコンプレックスが浮かび上がってくる。

細田守監督の「竜とそばかすの姫(2021)」に示されるように不満や鬱屈は吐口を求めてバーチャル空間の表現に反映される。これは単なる設定ではなく、現実世界における普遍的な構造でもある。
ちなみに太陽と月の世界のように二面性はインターネット黎明期からよく描かれてきたテーマだが、これは日本人特有の本音と立前にも根付いているような気がする。
人が一生で使うお金の半分はコンプレックスに対するものという考え方があるが、表裏どちらかでそれを飼い慣らすことが人ではないか。

ものを買って幸せになる人、食べることで幸せになる人、バーチャルアバターで幸せになる人、叶わない幸せがあるから他の幸せに糸口を見出すのだ。現状の自分に満足していないのでサービスや製品や作品を作るのだ。推し活や英才教育や飼育をするのだ。人のアウトプットするものとはその人のコンプレックスを一身に受け止め、幸せを託されたものである。よって、人の成果物を見ればその反対がコンプレックスだと分かるようになっている。

コンプレックスへの向き合い方は大きく4つあると考えている。
①コンプレックスそのものを解消するか
②コンプレックスを麻痺させるか
③コンプレックスを放棄し、逃げるか
④コンプレックスを肯定するか

作家性の強い内省的な作品は④の手法で真っ向から対峙している。身を削ってアンベールしたものは酷く醜く、異臭を放ち、不快感を煽り立てる。芸術家は往々にしてそういった側面があるが、似た職業として芸人もあげられる。奇異な容姿や障害など、不幸せと笑いは相性が良く、おめでたいことや充実は扱いが難しいとされる。本来では許されない他人を傷つける行為が、ギリギリ許される"笑い"という特権的な環境下が一種のエンタメになり得ていることは多くの人にとって希望である。

1人の人間が幸せになるための選択肢は驚くほどに少ない。
コンプレックスを一つ消せば、トレードオフでまた一つのコンプレックスが生まれ出る。

新しい顔を死ぬまで作り続けることができるのだろうか?
自身のコンプレックスを最大級に自覚し、それを生み出し続けることができるのだろうか?
歪んだ絵を美しいと思えば、歪んだ自身の顔はどこまで受け入れられるのだろうか?

例え整形でコンプレックスを解消したとしても②、③、④の自分を否定しないであげてほしい。

人よりもずっと歪みやすい。歯列矯正を一年サボればすぐにガタガタぐちゃぐちゃだ。
歪んでいるのが自然で、端正なのが異常?

歪みが制作を生み、制作がさらなる歪みを作り出すのだ。

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