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自己紹介(Part4)

 Santo Andréから同じSão Pauloにある Vila Ema に引っ越しました。
 家族で農業を頑張って、いい稼ぎができたからか、レンガをベースにした建物に引っ越すことができました。家は中古物件ではありましたが、建物が3つあり、道路に面している建物は日系人の家族に貸し、奥に進むと私たちが居住し、一番奥の建物は職場として使っていました。そこでは縫製業として生計を立てることとなりました。仲介業者が服となる、型通りに切られた生地を持ってきて、それらをミシンで規格通りに縫い付ける仕事でした。ミシンは3台あり、両親と姉が使用していました。辛かった農作業から一変し、心にゆとりが出てきました。

 職場として使用していた建物には、風呂場もあり、職場と生活スペースを兼ねていました。別の小部屋も物置として利用しておりました。
 その建物に泥棒に3回もやられました。でも盗られたのは姉の安いアクセサリーだけだったので安心しました。しかし3回は多いですよね。治安が悪いのは今でもそうですね。

当時の小学校は4年制で、写真は卒業時のものだと思います。
義務教育では無かったため年齢がバラバラでした。

私は後列の右端です

どうにかストレートで卒業することができました。(冷汗)

 運良く中学校へ進学できた私は10歳で、一番年上は18歳でした。
教室は小学校・中学校・高校が共有していました。小学校は午前中、中学校は午後の早い時間帯、高校は夕方からの授業でした。1日3時間程度の授業でした。
 中学校1年生の私は、ある日教室に地図帳を忘れてしまい、翌日にはもう無くなっていました。先生に訴えても、自己責任なので相手にされませんでした。当然ですね。

 体育の授業だけが午前中にありました。運動場や体育館などの施設がなかったため、近くの競技場まで行ってやっていました。週1回か2回の授業はサッカーと水泳だけでした。(笑)
 昼前に授業から家に帰ると、家ではいつもラジオからビートルズの曲が流れていました。ビートルズの現役時代でしたので、ランキングが常に上位で、耳にする曲が多かったです。その頃から現在までビートルズの曲は好んで聴いています。

学校には日本のように制服もあり、生徒手帳もありました。

左上は学校名が分かるように胸元のポケットに縫い付けるもの、
左下は競技場への入場パス、右下は開いた生徒手帳です。

日本が見習ってほしいのが一つありました。それは、登校時に校門で生徒手帳を係の先生に提出することです。回収された手帳は帰りに返却されます。つまり、手帳が無いと翌日学校には入れない。だからサボることもできない。見習うとすれば、これだけかもしれない。

校門前でポップコーンが売られていて、それを買って食べて帰るのが楽しみでした。その食べ方はたぶんビックリすると思います。茶封筒のような薄い袋にポップコーンを入れて販売しているのですが、辛い物が大好きでタバスコをかけて食べていました。たくさんかけることが多く、袋が破れそうなくらいビチョビチョになっていました。日本に来ても、家で今でもやっています。タバスコをかけると家族が食べられないので、小さな容器にタバスコを少し入れて、ポップコーンをつけて食べています。辛い物好きにはたまらない。是非やってみて下さい、きっとヤミツキになりますよ!

※ 最後まで読んで下さりありがとうございます。
 次回は少し変わった遊びや行事について書きたいと思います。

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