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記事が暫く書けなかった理由に対する考察-2

前置きは無しで前回からの続きとして書けなかった残りの理由を列挙する。

オチをつけようとすると書けなくなる

これは人に拠るが、僕の場合はオチを考えようとすると書けなくなってしまう。
オチから逆算して一つのストーリーに仕上げる事が出来ないからだ。

僕は話をしながら考えをまとめる癖がある。
最初自分でも話の核心部分がはっきりしていない。話し始めて自己否定を重ねたりする内に自分の伝えたい事が見えてくる。
これは直そうと努力しているけど中々改善できないでいる。
そんなタイプの人間にとって書き直しが出来る文章というのは相性が良いと思う。
内容を確認しながら書き進めていけるので、ネタとして思いついた事柄の何に惹かれたのかを書いていくうちに明らかに出来るからだ。

書きながらストーリーを考えるタイプはオチをつけようとすると話が途切れてしまうので、思ったことを書き出しきってから添削をして、その場でオチを考えるのが良いと思う(成り行き重視)。

明るくない話題を恐れずに取り込むこと

図書館で長男が表紙で選んだ宮沢賢治の鳥箱先生とフウねずみを読んだ時、何故この様な作品を出そうと思ったのか疑問を抱いた。
書こうと思えばもっと子供受け、つまり売れそうな作品を作れるだろうに自分の伝えたいメッセージを優先させていたからだ。
このメッセージは楽しいものではなく、皮肉に満ちていた。

ネットで感想を調べるとこの作品を高評価している人達が沢山いた。
皮肉に満ちた作品でも評価してくれる人の存在はとても心強い。
ネガティブな作品を書いても良いんだと思えるからだ。
ポジティブな作品だけでなくネガティブな作品も書けるならば、視野が倍に広がったのと同義だ。

傾聴講習を受けた際、人の行動の下に感情が有り、更にその下にニーズ(生理的、心理的、社会的欲求)があると習った。
ニーズには不満といったネガティブなものも含まれている。
ポジティブなものだけでなくネガティブなものも受け入れないと無理している感が出てしまうのだと思う。

ポジティブな励ましは悪いことではないけど、時にポジティブを前面に出しすぎていると薄っぺらく感じる。
それはネガティブを拒絶しているからだ。
その事に気付いてからというものの一般的に支持されないであろう意見を書くのが怖くなくなり、自身の考えを大事にしようと思えるようになった。

特定個人の誹謗中傷は駄目なのでそこは分別を弁えた上で、書きたいことを優先したいと思う。

最後に

今の僕が思うに記事を書き続けたいならば、肩肘を張らずに楽しいことも悲しいことも嬉しいことも怒りも表現するのが良いと考えます。
喜怒哀楽は人間の持つ基本的な感情。
喜と楽だけの作品群なんざつまらない。
僕は恐れずに怒と哀も書いていこうと思います。

書けないと困っている人は自分がタブー視していた分野に手を出してみるのをおすすめします。
その殻は自分の成長を妨げる障害でしかないと思うから。
誰かにこのメッセージが届くことを祈っています。


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