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無音のひとりごと録 #2

”当事者になる”ということがどうすればできるのか?

ここ最近の悩み事だ。

これまでも学生団体やボランティア団体の運営や立ち上げに関わらせてもらってきた中で思うことがあった。それがまた最近になって大きな問いとして横たわっている。

当事者になる。

私の言うその意味は、その団体や活動の作り手としての意識もしくは決心をもつということ。

団体運営をやっていると、活動入ってくれる人の中でもその活動を”やりたい”の「やりたい」が”当事者になること”と異なることが多い。
つまり、作り手として当事者として主体的に積極的に活動を進めたり、企画をしたりすることがやりたいのではなく、その活動・団体に”乗っかりたい”という人が一定数いる。(というより多数派)

もちろん、何かしらの興味をもったから団体に入るという決断をしてくれたのだろうし、せっかくだから団体として何をしているのかぐらい知ってもらって広報にもなればありがたい。だから、乗っかってもらうことは大歓迎。

ただ問題は、乗っかっていることを「自分はその活動の作り手としてやっている」ということと混同してしまうことだ。


やはり当事者として作り手として、その活動を進め、企画を形にしていくならば必然的に難しい局面にも出くわす。時には自分の時間を削って活動のために動くという自己犠牲も伴う。
でも団体に乗っかりたい場合、そういうある種の自己犠牲や自分の意思を後回しにしなければならないときに”傍観者”になることを選ぶことが多い気がする。つまり、それはだれか他の人がやってくれるだろうという他力本願のスタンスとなる。

もちろん、団体に乗っかりたいのだからそういう姿勢になることは必然的だと思う。そこで主体的・積極的になるれるのなら、それはもう当事者になっているから。


ただ、団体を運営・マネジメントする側としてはできるだけ当事者になってもらいたい。でも、それがむずかしい・・・


学生団体に限らず、他のボランティア団体などの様子を伺っていても、当事者になってもらえないみたいな問題をよく聞く。どうやって、主体となってやりたいと思う人を増やすか的なことはよくあるテーマな気がする。

おそらく、この辺のテーマ、問いはボランティア団体など任意による集まりの場合は昔からある問題のようにも思う。

でも、なんとなく社会全体として”当事者になる”ことから避ける空気感もあるように感じることもある。
たぶん、ワークライフバランスなどが普遍的価値観として広まったり、昭和的価値観からの脱却が進むことで、同時にさっきも言った「難しい局面にも出くわす。時には自分の時間を削って活動のために動くという自己犠牲も伴う」ということにネガティブなレッテルだけが一方的に貼られて、それから避けることが幸せで充実した生活になるんだと、どこか表面的な理解に偏ってる気がする。


自分が当事者になることで、たしかに多少の自己犠牲を払ったり、自分の時間を削ることも必要になるかもしれない。でも、その中で試行錯誤をしながら目標にちかづこうとする過程もまた充実した幸せな生活の一部になるはずだと思う。

当事者になってやってみることも決して悪いことではない。

幸せや充実した生活になるかどうかは、自分で本当にそれを望んで、そのための行動を起こせるかどうか。
それにかかっていると思ったりもする。


今回もお読みいただきありがとうございました。

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