道徳って冷たくてもいいのかも
ここ最近、外出が多くて電車に乗る機会も多かったです。
そうやって電車に乗るときに思うことがあるのですが、
だれかが隣に座ってきそうなときに、席をつめる、あるいは荷物をどけて座れるようにしてあげるべきかどうか?
決して都会ではないので、比較的に電車は空いていることも多いからこそ、そんな感覚を抱くのかもしれないですが。でもバスとかでも同じような場面ありますよね。
優しくて、まじめで立派な人ならそんな葛藤なんて思わず、席を空けて座れるようにするのは当たり前だって思えるんだと思います。
もちろん、私自身も「あぁ、座りますよね…本当は荷物もあって置いておきたから少し空いてて欲しいけど…」なんて頭を過らず、「どうぞ。」と心から思いたいですし、その方が変なモヤモヤを抱えずにお互い気持ちいいはずなので。
でも、じゃあ現実問題として根っから何一つネガティブな気持ちを抱かず、「あぁ、どうぞ!」と気持ちいいほど屈託なく、「お隣をどうぞ」と思える人はいるのか?という問いが出てきます。(ただ私がすごく偏屈なのかもしれませんが…)
そんなことを考えたとき、道徳ってどこの部分か?ということに問いが生まれました。
「できれば隣、空いてて欲しいな。座ってほしいな」と思う感情は、“究極的な道徳”としてはグレーな気がします。親切心のない、自己中心的な気持ち。でも、実際の行動としてはちゃんと席は空けて座れるようにしてますし、邪魔なんてしません。しっかり折り合いをつけます。
たぶん、これを読んで多くの人が「現実ってそういうもんでしょ。」と同意してもらえるのでは?って勝手に私は思っています。(そうじゃなかったら、そういう考え方もあるかーぐらいに思ってください笑)
でも学校の道徳の授業とかだと、”やさしいきもち”や”ありがとうのきもち”を持ちましょう、みたいな内面的な気持ちや感情に踏み込んでくるように感じます。
ただ、それって真に可能なのなのか?
きっと子どもたちだって、そんな自分の本音までコントロールするなんてムリ、いやなときはいやだって思うのは当然でしょ。ちょっと意地悪な気持ちをもつときだってあるでしょって内心では感じるのではないでしょうか。
いわゆる「道徳」という言葉を考えるとしたら、「道徳的な行動」と「道徳的な心」は分けて考えた方がいいかもしれません。
道徳的な行動は、人に優しくするという行動、他者を思いやると外から判断できる行動そのものであって実行する具体的な部分だと思います。
ただ、道徳的な心の方は“やさしいきもち”みたいなことではなく、ここでは道徳的な行動をしようという冷静な判断のことではないかと思います。
冷たくて淡泊かもしれませんが、なんとなく「やさしいきもちをつねにもちましょう」みたいなどこか地に足のつかない、まるで仏のような究極を求めるよりもいいのではないかと思ったりします。
「現実的な道徳心」の方が、結果的には行動になりやすくてみんなで少しずつ折り合いつけていこうと一致しやすい。
だれかが不利を一方的に引き受けることなく、かといってだれかが一方的に都合がいいで終わりにはさせない状況を合理的に判断してつくる。そういう道徳的な冷たさも意外と必要なのでは?と思いました。
結果的に最初に挙げた、電車で席を空けるかどうか問題ですが
ご高齢の方やヘルプマークのある人ならば、必ず席を空けるべき。そうでない場合、ひとまず席を空けるのが妥当じゃないかと折り合いをつける。やっぱり、そこで席を空けないのは乗ってきた人と座っている私の間で非対称な関係になるので。空けたけど、その人が座ってこなければそれでいい話ですし。
今回もお読みいただきありがとうございました。
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