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〜日常の発言はストレス発散なのか?対話なのか?〜

こんにちは!
れもんちゃんです🍋‎🤍

人間って、発言を全て頭でコントロールすることは難しいですよね。

どんなに論理的で冷静な人でも、
感情がゼロなわけではないと思います。

最近、身近で悪口を言ってる人を見かけました。
大きな声で、
本人が居るのか居ないのか分かりませんが、
4人くらいが寄って集って嗤いあってました。

その会話が聴こえた当初は、
『不快だな…』『やめてくれないかな…』としか思えなかったのですが、
いまは別に何ともなくて、むしろフラットに考えられます。

だって、人間の行動には全て理由があるからです。

私が見かけた悪口集団も、
ただ無意味に不快な言葉を発してるわけでは無かったのです。

たとえば、家庭内で上手くいってなくてストレスが溜まっていたり、
あるいは、仕事が滞ることへのフラストレーションだとか。

いくつか考えられますが、
その原因自体は考える必要はありません。

大事なのは、
『理由があって、そんなことしてる』
ということです。

人を不快にさせることをしてるなら、
その人も、そのくらい不快になる何かがあったと思うと、
「わかるわかる」「しょうがないよね」「むしろ今まで耐えててえらくない?」
なんて、共感すらできます。

できれば、その不快な行動は、不快にさせられた物に向けて欲しいのですが、そうもいかないのが普通なので、
フラストレーションは別の方向に向けられることの方が大半です。

全ての行動・発言を冷静に整理して
(しかも会話なので、一瞬の判断で)
会話相手を不快にさせないような、
模範的な行動は、よっぽど賢く聡明な人にしかできないと思います。

コミュニケーション能力を磨くのは、
コミュニケーションへの慣れしか手段がなくて、
コミュニケーションを取ること自体が練習になります。

コミュニケーションの理論を知ること自体は役に立ちますが、
実践で生かせるのは、ほんの一部に過ぎません。

ですが、コミュニケーションの練習中に人を不快にさせることもあります。
その場合は結局、相手に悪い印象を植え付けてしまいます。

じゃあ練習を親子など、気心知れた関係で積んでいけばいいじゃない。
とも思うのですが、大抵会話というのは、気心知れた仲の人とばかり行われる訳ではありません。

なんなら、気心しれてしまうと、会話すら発生せず、一緒にいる空間だけでも心地よくなってしまいます。
『気を許す』とはまさにこの事かなと。

やっぱり、コミュニケーションの練習相手は、
できるだけ多くの人と、できるだけ別の特徴を持ってる人たちと行なうべきですね。

誰かの発言で不快になっても、
「ああ、この人はこういう人なんだ」
「なにか嫌なことあったのかも」
と相手を思うのも、大切なコミュニケーションだと思います。

コミュ障で陰キャな私だからこそ、
この視点を持つことが出来るのかなぁって思います。
(案の定、理論は生かせてません。)

こうやって考察すること自体が無意味だとは思いませんが、
(現に悪口を言ってた人たちを許せてますしね)
机上の空論というか、

何よりも、現実にいる相手と、生のコミュニケーションが一番大切だし、
成長できる機会だと思います。

長々と講釈を垂れましたが、
要するに、『コミュ障やめたい』ってことです。(切実)

れもんちゃんの無計画お喋り
第八回でした🍋‎🤍

𝓽𝓸 𝓫𝓮 𝓬𝓸𝓷𝓽𝓲𝓷𝓾𝓮𝓭

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