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しゃべり過ぎる作家たちのMBTI:Intermezzo

Intermezzo、つまり間奏曲です。鏡花の続きを書くつもりでしたが、読み直しに手間取っているうちに別のことを思いつきました。わざわざイタリア語とはまたイヤミなペダンティスム、と言われそうですが、今筆者の頭のなかにはオペラ「カバレリア・ルスティカーナ」のIntermezzoが流れているので。これは器楽だけのバージョンと「Ave Maria」の歌詞が付いた歌曲のバージョンとありますが、特に歌曲バージョンがセンチメンタルに遠い日の憧憬をそそる。このオペラの冒頭の合唱曲は、高校時代の愛唱歌で、現実の経験とつながっているのですが、Intermezzo のほうは、「まだこの世に生まれる前に見た青空」といった不思議な感覚を呼び起こす。自分でも歌ってみたいのですが、音域がものすごく広いので、手が出せないのが残念。

と、脱線はいい加減にして、何が「Intermezzo」なのか。今まで読んで下さった方々はご存じのとおり、幾つかの作家を「MBTI」という観点で分類しようとしているのですが、どうしても「この人S?N?」とか「F?T?」とか迷いが出ます。あまり迷い過ぎると論理学でいう「前提が偽なら結論はすべて真」的な玉虫色の言説を弄する羽目になりそうだ、ここらで「MBTI」の4つの対立項について、自分なりの基準を立てておこう、と。

1 E:行動原理が明確でブレがない vs I:屈折ゆえに紆余曲折を招いてしまう
 歴史ものでいうと、(やや古く使い古された対比ではあるが)司馬遼太郎と藤沢周平か。司馬遼太郎はともかく面白い。「播磨灘物語」のように戦国と言っても地方の小競り合いが主体の地味な設定でも、主人公が表に出る場面は必ず盛り上がるし、登場人物の性格はその時々のアクションからはっきり読み取れる。「巻措く能わず」でイキオイのまま読み切ってしまうけど、ある程度の年齢になると「ちょっとこれ、割り切りすぎ?演出過剰じゃ?」という疑問も出てくる。藤沢周平はその点、市井のプロレタリアが共感しやすい感情の機微を捉えている。劣等感をばねに努力して出世する「蝉しぐれ」の主人公も十分にいじましいし、時代へのかかわりも「巻き込まれ型」。自らビジョンを持って突き進むヒーローではない。「こういうの、分かるよね」と言いたくなる場面が随所にあって、ある意味時代を超えているのだが、登場人物の屈託が身に迫って感じられるので、鬱的な気分の時は読めないのが難。

2 S:素材を見る vs N:背景を見る
 例えば目の前に一本の木材がある。「S」はそれの質感や硬度、木目の出具合を観察し、これを使ってどんな像や細工物ができるか、建築に入れるならどの部分に使えるかを考える。「N」はそれがどんな木から切りだされたものか、産地はどこか、その地域の政治経済は、それを切った人の生活環境…と連想を膨らませていく。その木の使い道を知ったら、ではどういう手段でどれくらいその木材を手に入れたら目的に適うかを思い描く。漱石の「夢十夜」に現代の木には仏は埋まっていないというセリフがあったが、漱石は「N」?骨董のコレクターのようにモノをモノとして愛でることができるのは「S」の特徴と思えるのだけど、「坊ちゃん」にはそういう気持ちが分からない、という件があったっけ。

3 F:感情移入したがる vs T:感情移入を避ける
 変な例だが高校の生物の授業でやったヒヨコの解剖(生体ではなかった)。「こんな可愛いひよこちゃんを殺して切るなんて」というのはもちろんF。「フライドチキンを食べる人間が何を言う。スーパーで買った鶏肉を料理するのとどこが違う」というのがT。現実に死んだヒヨコを見て憐れと思っても、実験のマテリアルに感情移入するべきではないと考える。もっとも(今時そんな「ぶりっ子」はいない?)筆者世代のF女性には「戦略的F」もいるので油断はできない。女性は少なくとも人前では「T」より「F」であった方がいい、という(むしろ女性間の)価値観は理解できないのだが。
 筆者の生まれた頃、作家の曽野綾子氏のエッセイ「誰のために愛するか」がベストセラーになり、親の本棚にあったのを中学生のとき盗み読みした。その中に、「知力も体力も女性は男性に負けるかもしれない。でも人を愛する心だけは女性の方が上」というところがあり、書かれた当時、多くの女性がこのフレーズに勇気を与えられたという。だが、十代の私は生意気にも(今も変わらないが)それは「Fの呪縛」というものじゃないのかなあ、と感じた。たしかに人を愛する心は大きい方がいいに決まっているが、女性だから、というものではないだろう。筆者の感じるところ、曽野氏の元来の性格は「T」寄りだけど。
 根拠として薄弱すぎるだろうか?小説の作者の性格が「F」か「T」かは、作者が最も感情移入していると思われる登場人物が、見せ場で「心情を吐露する」か「理を説くあるいは行動の背景を説明する」かで見て取れるように思う。数冊しか読んでいなくて判断するのは早計かもしれないが、曽野氏の小説では、登場人物のセリフは割と説明的で感情表現は少ないように思う。

4 J:プロット優先 vs P:場を優先
 小説を書く人には「書き始める前にある程度の筋道が見えていて、それに沿った展開を心がける」Jタイプと「情景やセリフがまず浮かんできて、それを生かすストーリーやキャラを考えていく」Pタイプがあるように思う。実際に書き始めてみれば、どちらもある時点で人物が勝手に動き出し、それを追って記述するうちに自然に話が出来上がっていくということになるのだろうし、それがうまく進んだものが読者をつかむのだろう。(論文でもそうですね。一つのテーマを掘り下げていくと、ある時点で「データがしゃべりだす」。その瞬間は「Eureka!」です。たとえFactに立脚したシャカイ的論説であっても。)が、読み終わったあと、頭に残るものは、Jタイプでは全体のストーリー展開で、Pタイプでは個々の特徴的なシーンになる。
 人と話をする前、「J」は親しい人とであっても「想定問答」を作っている。現実には相手が他人である限り、タマはいつも思わぬところから飛んできて、あたふたしながら軌道修正する羽目になる。「P」のようにその場その場のタマの受け渡しを楽しむ、というのが難しい。
 筆者はいつも他人と会話したあと、その展開を振り返り、「あそこはこういう言い方をしておけばプログラムどおりに話が進んだのでは?」と後知恵で悔しい思いをする。テレビや映画を見ていても、登場人物に対して「自分だったらこういうのだけどなあ」という思いを抱くことがよくある。
 最近の例では、日曜22時からNHK BSで放映している篠田節子氏原作の「仮想儀礼」。(以下ネタバレあり)真面目な公務員だった主人公がお調子者の友人の口車に乗って失業し、そこでまた懲りずに乗せられて仏教系の振興宗教の教祖になる。無論当人も乗せた友人もカネもうけが目的のインチキは承知。が教祖が変にご利益を説かず、来訪者の悩みに対して誠実に公務員的アドバイスをしてしまったりするのがかえってウケて信者が集まってくる。他の新興宗教団体の信者が押しかけて来て争いの中、教祖がそれを止めようと「仏様が涙を流している」というと祭壇の仏像(助手になった友人が作ったハリボテ)の目から涙が。もちろん人が見ていない隙に助手が水をかけたものだが、「奇跡」に驚いた人々が手を合わせてその場は収まる。
 数日後「あれはインチキだと自分は知っている」と再び押しかけて来た人々に「あなたにそう見えたのならそれは(あなたにとって)本当でしょう。人は見たいように物事を見る。それはステージの差だ」と言い放つが、これはマズイように思う。「教祖らしくない謙虚さ」が売りなのに、こういう教祖教祖した物言いをしたら霊感商法をやっている相手方と同類ではないか。自分なら…
「そこの仏が現実に涙を流すか流さないかなどどうでもいい。あれはモノに過ぎない。我々を生かし、我々に仏性を分け与えている宇宙の法は目に見えるものではない。ただ凡人は何か目に見えるものに仮託しなければそれが感じ取れないからああいうモノを置いているだけだ。争いを恥じて涙を流したのはモノではなく仏性なのだが、自分も凡人であり、それが仏像の涙という形で見えた。誰もが自分と同じ形で仏性を感知するとは限らないから、あなたにそれが見えなくとも不思議はない」
 ストーリーの展開からすれば、ここで主人公がぼろを出さなければならないからこそマズイ言い方をさせているのだけど、どうも口を出したくなるのですね。筆者は原作を2009年の刊行後まもなく読んでいて、役者さんがそのキャラをうまくつかんでいるだけになおさら。篠田節子氏の作品は色々読んでますが、これは特に秀逸だと思います。彼女のMBTIはここで述べた対立項にあてはめていくと「ENTJ」かな。愛読者の方にご意見伺いたいところ。

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