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しゃべりすぎる作家のMBTI(1):NT型はセーカク悪い?+

ヘンなタイトルで申し訳ない。これまで2、3の記事で自分のことを「注釈癖がウザい」と言ってきたが、自分がひとと語り合いたい文学作品を思い浮かべると、(類友意識か?)作者に「お前ちょっとしゃべりすぎ!」と言いたくなるタイプが多いかなあ、と思い当たった。

単純に「好きな作家」とは違うのがややこしい。例えばチェーホフのように「必要最小限で十分すぎることを言う」作家の作品には、「そうそう、こういう時はこう言うしかないんだよ」と感嘆するのみで、口を突っ込む余地がない。

かえってくだくだしく背景や登場人物の行動の原因を説明するタイプのほうがツッコミどころが多くて、作者はこういうけど...と解釈癖をそそられる。

「そは置きて再び説く」

突然何を?これ、江戸後期の大長編小説「南総里見八犬伝」で、新しい節が始まるときの決まり文句です(1970年代の子供番組「新八犬伝」以来のファンだということは前に書いた)。数日前、自宅の近くの図書館で、「青い鳥文庫」のダイジェスト版を見つけた。これが面白い。原作はやたら長くて、登場人物やエピソードが覚えきれないほどある(この人前にどこで出てきたっけ、とかこの前に●と×が会ったのどこだったっけ、とページをめくりなおしているといつの間にか徹夜です)。そこをうまく要約するだけではなく、主要人物をかなり大胆な解釈で現代の若者にひきつけてキャラを立たせている。

「八犬伝」のダイジェスト版は、子供向けでも大人向けでも枚挙にいとまないほど出ているが(見つけるたびに一々読んでみるこちらもこちら)、子供向けはだいたい大きなエピソードを切り取ってつなぎ合わせただけで、全体の流れが見えない。大人向けには、有名作家が作ったものもあるが、きれいにまとめすぎていて、作中人物の個性が見えてこない。

「そは置きて再び説く」
話が先走り過ぎました。まず「南総里見八犬伝」はどんな話かを説明せねば。
舞台は室町時代中期の関東地方一円。始まりは「南総」つまり房総半島の南端の安房の国で、源氏の末裔ながら落ちぶれた里見家の当主が苦難の末安房を平定するが、途中で悪女に「孫子の代まで煩悩の犬となる」と呪われる。その言葉どおり、国を手に入れる最後の段階で「敵を倒したら姫をやる」と愛犬に言ったばかりに、姫が犬に嫁して山中に隠れ住む羽目になる。姫は犬と人間の間で生殖ができるはずもないのに妊娠し、訪れたかつての婚約者に身の純潔を証明しようと切腹すると、そこから白い煙が上がり、首にかけた数珠の玉が空に舞い上がる。

この数珠は姫が幼い時神から授かったもので、玉の中の八つには「仁義礼智忠信孝悌」という文字が見える。その玉はやがて関東のあちこちに落ち、そこで生まれた男児は姫の魂の息子「八犬士」として、それぞれの玉の徳を体現しつつ仲間を求めて冒険を重ねる。姫の婚約者だった青年は僧になり、要所要所で犬士を導く。やがて安房に集結した八犬士は姫の弟である現領主が、怨霊にそそのかされた幕府筋から仕掛けられた戦いに勝ち、里見家の重臣となる。

「八犬伝」の作者の曲亭馬琴という人は、生まれは下級武士であったが、人に仕えるということができないタチで、職を転々としたあげく、中年になって稗史小説(教科書には載らないような地方の豪族の小競り合いなどを元ネタに話を盛りに盛った時代小説、とでも言えばいいか)の作者となった。「八犬伝」は長く人気を保ち、48歳から76歳まで28年にわたって書き続けている。

なんかイヤな奴だったらしいですよ。幾つか伝記が出ているのですが、ケチで傲慢で無駄にプライドが高く、誰に何を言うのも上から目線。自分から武士を捨てたクセに息子や孫にはまた武士の身分を与えようとあくせくし、しかしどちらもデキのよいほうとはいえず、また病弱で先立たれてしまう。晩年は失明して息子の嫁の口述筆記に頼って執筆を続けたという。

この嫁さんは辛かったろう。彼女を主人公にした小説や評論もあり、そこでは必ず、当時の女性の常として、一通りの読み書きができる程度の教育しか受けていなかったのに、いきなり「こんな漢字も知らないのか」と気難しい義父に叱られこき使われて…と同情される。それでも長年努力した結果、最後は義父の信頼を得、「八犬伝」完結に当たって感謝の辞を捧げられた。めでたしめでたし。

が、彼女にはスキルが上がるにつれ、別の悩みも出てきたのではないか。初めは叱られつつも、ストーリーの面白さから筆記作業も楽しみであったのに、年月が経つにつれ、登場人物は精彩を失い、話がつまらなくなっていく。が立場上それを指摘するわけにもいかず、「この話、早く終わらないかなあ」と内心思いつつ指だけを機械的に動かしていたような気がする。

よく言われる(そして自分もそう思う)。この物語は最後が退屈だ、と。八犬士の「母」である姫の誕生から八人が集結するまでのエピソードの数々は昔風の言い方をすれば、「巻措く能わず」であるが、最後の数巻は故事来歴の焼き直しにすぎない、と。もともと何かというと故事来歴を持ち出す癖はあった。が、八犬士の集合くらいまではそれが登場人物の行動とリンクしている。

坪内逍遥?だったか、明治時代の文学者が、旧時代の文芸の代表に「八犬伝」を置いて、登場人物が八つの徳の体現者で血が通っていない、という批判をしていた。犬士の安房集合から先は確かにそう言えそうである。ただ、西欧文学導入後の小説のような心理描写はないとしても、真ん中の犬士の冒険譚の部分は、それぞれに複雑な生い立ちを抱えた青年たちが、玉に与えられた能力があるとはいえ、基本的には自力で世の荒波を乗り越えていく姿が描かれていて、自然と感情移入したくなる。

しかし話が押し詰まってくると、故事来歴をつなぎ合わせてストーリーをひねり出し、登場人物をそこに乗っけているのではないか、と思われる展開がある。エピソードそのものは、ファンタジーとして面白くないことはない。が、そこに一々注釈をつけ、倫理的なお説教につなげるのは興醒めと言うもの。実際、ダイジェスト版によっては八人の終結で話を切り上げているものもある。

「そは置きて再び説く」
でこれがなぜMBTI?
「八犬伝」を何かの形で読み直すたび、私は作者の(時には無駄な)博覧強記にヘキエキしつつ、ああ、ここにもNT型がいる、と思う。知識を得るのが好きなのはもちろん、その知識を人に語らずにはいられない。マウンティングの意図はない。ただ自分が知って、かつ面白いと感じたことを一人の頭に収めておけない。根がケチなんでしょうね。日常生活ではもちろん、ものを書く時にも不要な知識を捨てることができない。よく論文書くときに「集めた資料の9割は捨てる覚悟で」というけど、この「捨てる」が苦手。得たものはどこかで使わねば。作品に入れ込んで人に分け与えなければもったいない。分け与えられたほうはこれが何の役に立つ、下らないというかもしれないにしても。

そこで「どこがくだらない、現世の金儲けと結びつかなくともこれを知っておくことの意味は…」と延々と理屈を述べるのがまたNTというものであろう。馬琴という御仁はかなり論争好きだったとおぼしく、姫が犬の「気」だけで身ごもる?そんな(現代の文脈でいえば)非科学的な!という批判に対して、延々と漢籍の知識を持ち出して反論している。

とするとNTの中でも「討論家」と言われる「ENTP」か?

いや、時々登場人物が折角「自分で動き出している」のにそれを押しとどめて自分の設計図に押し込める、というか妙なツジツマ合わせをするところ、臨機応変に強い「P(erception)」より原則にこだわる「J(udgement)」かと思える。

有名な例だと、「八犬士」の中でも一番人気の「孝(親孝行の孝)」の玉を持つ正統派努力型ヒーローの言辞がある。巡り合った仲間から恋人の死を聞かされて、「もう一生妻は持たない。妾だけで事足りる」って?「フェミニズム観点」は書かれた当時はないとしても、それはないんじゃない?と当時の女性でも思ったんじゃないか。
好意的に解釈すれば、この仲間たちは現代で言えば大学生くらいの年頃で、飲み会でじゃれ合っているときに、ふっと感傷的になって「あの子以外に結婚なんてしない」と言ってしまい、「子孫が絶えたらどうするんだよ。それ一番親不孝だろ」と突っ込まれて「いや、そういうときは…」とあわてて場を取り繕ったセリフと考えられないことはない。

といっても、ここはやはり「妾」なんて言葉を出さずに涙にくれていてほしかった、と一読者としては思う。のちの展開で、結局別の女性と結婚することになるとしても。この女性も例のツジツマ合わせで死んだ恋人の魂を受け継いだということになっているが、これは違和感なく受け入れられる。

「そは置きて」
馬琴が「J」タイプではないか、という論点に戻る。「論争好きのENTP」から横滑りして「ENTJ」?「指揮官」じゃないよなあ。リーダーシップはとりたがるけど、人が進んでついてきたくなるタイプとは思えない。

とすると、消去法で「INTJ」?自分としてはこういうヤなジジイと一緒にされたくないのだけど、やっぱりこれしかないか(ちょっと涙)。


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