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「光る君へ」登場人物考〜藤原道兼と清少納言

「光る君へ」の登場人物は、高校の古典でお馴染みの人物が多い。主人公まひろ(紫式部)はもちろんのこと、ききょう(清少納言)に、あかね(和泉式部)はその作品が教科書に載っている。出家した花山天皇や藤原道兼、道長は大鏡、道隆とその子どもたち(伊周、定子、隆家)は枕草子でその人物像を知ることができる。 

今回のドラマで一番驚いたのは、初回、道兼の登場だった。

教科書では道兼は花山天皇を出家させる人物として登場する。愛する忯子(井上咲楽)を亡くし、失意のどん底にある花山天皇を騙して出家させてしまう冷酷な策略家として、歴史物語「大鏡」に描かれていて、授業が終わった頃には道兼は嫌な人物としてインプットされる、というのが毎回の流れであった。もちろん背後に父親である兼家がいることも大鏡には載っている。

そんな道兼だが、まさかまひろの母を殺すという設定にするとは、初回からもうびっくり。三郎(道長)を虐め抜く描写もあって、ドラマではさらに真っ黒な憎まれ役としての登場だった。

 しかし、ドラマが進むにつれ、藤原家の汚れ役を背負わされ、それでも父に認められたい一心で自分の役割をまっとうしていく道兼が次第に魅力的に見えてくる。政治に対する姿勢も兄の道隆よりずっと民衆のことを考えている。それなのにようやく関白の地位に着いたのも束の間、疫病に侵され、あっという間にこの世を去る。玉置玲央さん演じる道兼の悲哀に満ちた表情は胸に迫るものがあった。

授業で嫌なやつだとしか教えてこなかったことを反省。すまなかった、道兼。

次に、ファーストサマーウィカさん演じるききょう(清少納言)について。

彼女が演じると知って、正直驚いたのだが、始まってみるととてもイメージと合っていてこれまたびっくり。

清少納言というと、明るく朗らか、でも自惚れ屋で自慢話が多い、なんてイメージで語られることが多い。これは、枕草子の中に、われぼめと言って、自分が言ったことをだれそれが褒めてくれたのよ、という章段があるためにこういうふうに受け止められてしまう。

紫式部日記の中にも、

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

紫式部日記

【現代語訳】
清少納言は、いつも得意顔で偉そうにしていた人。あんなに賢いふりをして、漢字を書き散らしているその程度も、よく見てみると、まだたいしてわかっていないことも多い。

まひろが書くとは思えない悪口。このあたり「光る君へ」では触れないのか、それともアッと言わせるエピソードに仕立てるのか楽しみなのだが、この日記の影響はとても大きいと思う。

というのも紫式部は、男でさえ、才能があるのをひけらかす人はどうだろう、よろしくないよねというのを聞いてから、自分は一という文字さえも知らないふりをしてきたと日記に書いていて、当然日本のおじさま研究者たちは、この控えめな態度をとる紫式部に軍配をあげてきた。
清少納言の晩年については説話や能に描かれているのだが、どれも惨めな話ばかりで、結局学問をする女は不幸になるよ、と言いたかったらしい💢。

才気煥発な自身の才能を包み隠さない、明るく朗らかな清少納言が私は好きだ。(実際身近にいたら、ちょっと嫌だと思うこともあるだろうけど)

そして、清少納言が枕草子を執筆した理由について、山本淳子氏は『枕草子のたくらみ「春はあけぼの」に秘められた思い』(朝日選書、2017年)の中で、悲劇の中宮、定子の美しく輝く姿を人々の記憶に留めるために執筆したのだと述べている。

たしかに高校で枕草子の授業を受けると、中宮定子と一条天皇の睦まじさや、定子の素晴らしさ、そしてなんといっても、定子を取り巻く人々の明るく朗らかな様子、ウィットに富む会話が印象づけられる。この文脈の中に、父道隆、兄弟である伊周、隆家も存在していて、みな愛すべき人々として受け止められる。まさか定子が悲劇の人だとは思わない。

これが清少納言の目論見どおりだとしたら、恐るべし、清少納言。

貴方の思い通り、千年経っても高校の教室では、定子様は美しく輝いている。

「光る君へ」ではこのことに加えて、枕草子が政治的にも影響を及ぼしているという描写になっていて、これまたそうかとひざを打つ。


さてさて、長くなってきたので、今回はここまでにして、続きは次回に。



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