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疱瘡(ほうそう)の姫君―花折る少将異聞―第二話


 少将の訪問から七日ほど経った雨上がりの午後、透子はある人を待っていた。雨を十分に吸った土の匂いと草木の息吹が庭から部屋の中へと流れてくる。春の生暖かな空気の中、透子はいつになく緊張していた。かつて、五節の舞姫に選ばれた時、透子の後見として、宮中での作法から舞の所作に至るまで全てを教えてくれた弁内侍様がいらっしゃるのだった。実に七年ぶりの再会である。都に疫病神が現れた七年前、透子はその禍をもたらした疱瘡の姫君だと噂され、それ以来人目を避けて隠れるように暮らしている。弁内侍と呼ばれていたこの方もまた出家して大原に移り住んだため、会う機会がなかったのだった。

「お久しゅうございます」

透子は震える声でそう言ったきり顔を上げられなかった。

「姫君、お顔をお見せ下さいませ。私はあなたにずっとお会いしたかった。そしてあなたに謝りたかった。疫病を恐れる余り、あなたをあれほどまでの傷つけた世の人々のぶんまで」

「尼君さま」

あとの言葉が続かない。涙がこぼれた。尼君の懐かしい声に胸の内にせき止めていたものがあふれ、忍び泣きが嗚咽に変わる。

尼君はそっと透子の肩を抱き、優しく背中を撫でてくれる。母のような優しさに包まれ、いくら泣いても涙が止まらない。ひとしきり泣いた後、大きく一呼吸してようやく落ち着いた。透子は、

「子どものようでお恥ずかしゅうございます」

と言ってはにかんだ。

尼君と透子は時に涙したり、笑ったりしながらこの七年のお互いの近況を語り合った。尼君は娘に先立たれた悲しみや一人残された孫娘の成長が生きがいであることを語った。透子は、父の形見になってしまった白氏文集などの漢籍や、古今和歌集、在原業平の物語を暗誦するほど読んでいること、雨音に紛れるように、雨の日に限って琴の演奏をしていることなどを話した。

「実は、あなたにお願いがあって今日はやってきたのです」

「お願いというのは」

透子が聞き返す。今の私にできることなどあるのだろうかという不安が先に立つ。尼君の話は次のようなものだった。

尼君の孫娘である広姫はこのたび伯父である右大将の養女となった。すべて帝に入内させるためである。知ってのとおり後宮には后がおひとかた、しかも男皇子はいらっしゃらない。こうした状況で入内するとなると、いくら右大将の後ろ盾があるとはいえ、ひどく辛い思いをするであろうことは想像に難くない。そこで透子に頼みたいことがあるというのだ。

「一度は帝に入内を望まれたあなたにこんなことをお願いするのはひどく失礼なこととわかっているのだけれど」

そう前置きしてから、

「あなたに、広姫の女房として出仕していただきたいのです」

尼君は眼に強い光をたたえて言った。透子は茫然として尼君を見つめていた。肩で切りそろえた尼そぎの髪にはずいぶん白いものが混じっているが、その美しさは相変わらずだ。当時十六才だった透子は強くて美しいこの方に憧れ、自分もこんなふうに生きてみたいと思っていた。そう思っていたことさえもはや忘れていたのだが。

「私が女房としてお仕えしたとて、何の役にも立てるはずがないではありませんか。穢らわしい噂まで立てられたというのに、どうして今さら宮中に出仕など……」

透子は板敷きの床の木目に視線を落としたまま答える。

「実は、あなたの出仕は帝が望んだことでもあるのです」

透子は思わず顔を上げる。その表情は固く険しいものだった。そして「今さら何を…」と言葉を漏らした。

「私はあの時、疫病が流行した七年前、まだ十四歳であった帝のことを内侍としてお側で見ていました。帝は、疱瘡の姫君と呼ばれ都の人々の悲しみや憎しみの全てを一身に引き受けざるを得なかったあなたを救い出すことができなかったことを、ずっと悔やんでおりました。これまで新たな姫を迎えなかったのもそのせいなのです。あなたを探し出して女房として出仕させよと帝はおっしゃいました。たぶん罪滅ぼしのつもりなのでしょう」

透子は悲しみと悔しさと怒りが腹の底から込み上げてくるのを感じる。七年前にあった出来事には全て蓋をして生きてきた。蓋をしてようやくうまく生きられるようになったというのに、帝は今更私を引き摺り出そうとするのか。透子は右の手を膝の上で握りしめる。そして今度は左手でぐっと右の二の腕、疱瘡の跡が残っているあたりを押さえ、その袖をたくし上げ、白い腕を尼君に見せた。

「ご覧下さい。私には疱瘡の跡がこうして残っています。私は疱瘡の神に愛されたから一つも跡が残らなかったなどという話は全くの嘘。そんな嘘のせいで私は家を焼かれ、家族を失いました。やっとの思いでここまで生きてきたのに、今さらどうしてまた人目にさらされるような場所に出て行かねばならないのですか」

「そのままずっと息をひそめるように暮らしていくのですか。あなたくらいの才覚があれば宮中で認められるはず。自らの力で生きる道を切り開いていこうとは思いませぬか」

自らの力で生きる道を切り開く……。透子はどういうことか理解できず、尼君の瞳をじっと見つめる。今の私にそんなことができるのだろうか。尼君は真っ直ぐ透子を見据えて言う。

「疱瘡を身に受けて生きる者は世の守り人になるとの言い伝えがあります。疱瘡の神に愛されたと噂されたあなたは、この都の守り人になる。あなたはかつて世の人々が流したその嘘を、都の守り人であるという噂に変えてそれを盾にして堂々と生きるのです」

尼君は手を伸ばして疱瘡の跡をそっとなでた後、透子の右袖を優しく下ろしてやる。そして両手で透子の右の掌を包み込むように握りしめて言った。

「前にお進みなさい。広姫も今はまだ幼いけれどゆくゆくはあなたの力になることもできるでしょう。そして何よりあなたに、広姫のことを支えてほしいのです」

「私が都の守り人だなどという噂を信じる人がいるのでしょうか」

「信じますとも。これは清水観音様の夢のお告げなのですから」

尼君はそういうと、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「広姫は先日まで清水寺に参籠しておりました。三日目の晩に観音様が夢枕に立ち、広姫が入内するにあたり、疱瘡の病から生き残った姫を女房として連れて参れ、さすれば都は守られるだろうと」

にわかには信じがたい話である。それでも清水の観音様のお告げとあらば、疑うわけにもいかない、と思ったその時、透子は全てを理解した。

そういうことか。

清水の観音様のお告げと言われれば、誰もが信じたくなる。尼君様はそれを利用しようとしているのだ。ならば、先ほどのお告げは嘘なのか。嘘でもかまわないと透子は思った。自分を疱瘡の姫君に仕立て上げた世間の人々が、今度は私を都の守り人に祭り上げる。本当にそんなことが起こるのか、試してみたいような気持ちになったのだ。

時を見計らったように、控えの間の戸が開き、愛らしい姫君が現れた。いざり寄って尼君の隣に座る。華奢でまだあどけなさを残すような体つきだが、その瞳は尼君によく似ていて、揺らぐことのない強い意志を感じさせる。

「よろしくお願いいたします」

鈴のような凛とした声であった。透子は驚きつつも、ふと聞いてみたくなった。

「入内することに、迷いはございませんでしたか」

「はい、そこに私の生きる道があるのならばそれに従うだけです」

まだあどけなさを残す姫君の声には覚悟が感じられた。それに引き替え、自分は禍々しい身の上を言い訳にして全てを諦観の中に閉じ込めようとしてきたのではあるまいか。姫君の声は透子にそう思わせるだけの強さがあった。その強い覚悟に圧倒された。

「私でよろしければ」

透子の口から思わず言葉がこぼれ出た。広姫がほっとしたような表情を見せる。この方をお支えしよう。透子の胸に小さな明かりが灯ったような気がした。




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