まち研究4 福島県須賀川
須賀川の有名人円谷英二を紹介したい。
映画会に於いて、ウルトラマンやゴジラなど特撮映画を確立させた特撮の神様。
円谷英二は作品を通して、多くのクリエイターに影響を与えている。スティーヴン・スピルバーグ、ジェームス・キャメロン、ジョージ・ルーカス、ティム・バードン、宮崎駿、などなど。円谷英二は映画会に革命をもらたした存在である。
円谷英二は波乱万丈の人生を生きてきた。
1901年福島県須賀川市に生まれる。3歳の時に生母セイと死別。養子だった父も家を出ていき、円谷は祖母に育てられる。子供頃から飛行機や汽車が好きだった円谷英二は、手先が器用でそれらの模型作りに没頭している。
その後上京し、工場に就職するも、子供の頃から憧れだった飛行士への夢を追って飛行学校に入る。しかし、事故で教官が死亡、一台しかなかった飛行機も大破、飛行機乗りを諦める。
夢を諦めた円谷は、玩具会社に入り、花見で喧嘩の仲裁に入ったことで、映画会社の撮影技師と知り合い映画会に入る。
その後は、カメラマンとして活躍する傍ら、特撮の研究を積み重ね、ゴジラがヒットしたのが53歳。映画の世界に飛び込んでから35年の年月がかかっている。円谷英二は遅咲きの人だった。
円谷英二は常に新しいイメージを追及した。
新しい映像機材も自分で開発した。撮影用クレーン、ホリゾント、ブルーバック撮影、多重合成機、ミニチュア特撮、フェイドイン・アウト、アイリスイン・アウトなどの撮影手法、証明写真などに使われる三分間写真ボックスもその原型となるものを作った。
ゴジラやウルトラマンが大ヒットしたあと、世界の円谷として益々活発に円谷プロダクションのスタッフを支えながら、特撮映画とテレビ特撮の両者を発展させていく。
大阪万博の三菱未来館で行われる映像展示の撮影中に体調を崩した円谷は、伊豆の別荘で永遠の眠りについた。ー68歳。
戦中戦後、焼け野原から立ち上がった、日本の高度経済成長期、物資も映像技術も豊かでない時代、円谷は知恵とアイディアで多くの人々に夢と感動を与えた。
あの物不足の時代に円谷英二がどう生きて考えたのかを知ることが、この混迷の時代を生き抜くヒントになるのでは?
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