見出し画像

ショート 小説 余震と君と揺れるぼく 1

春風が哀しみを連れてきた。
阿蘇から下る白川の河川敷は、物悲しく沈んでいた。
健気に木々たちは、愛らしいピンクを露に覗かせ、大半のピンクは雨に濡れて散っていた。そこに集う恋人たちの群れは団子を食べ、下品に酒を飲み、宴に高笑い、欲望を身体に燃やしていた。

僕はくだらないと酒を飲み孤独な散歩を望んだ。40歳で死のうと決めてから、どれだけ強くなれただろう。死に逝くものに必要なものは、酒と孤独、暇をつぶす読書位で、こんなに気楽な職業?はない。

そうか震災から1年か。そういえば家は全壊して失業、家族は離散したのだった。

しかしそれは死を決意したきっかけではない。
ずっと昔から人生の正午で死のうと決意していた。
下らないヒエラルキーもそうだし、老人になると意地悪くなることにも嫌気がさしていた。早く死ぬことで今必要な面倒なことが一切合切精算されるような気分もあった。それを現実逃避、ダメ人間、クズと言われようがそんなことどうでもよかったのである。

よく人をアリとキリギリスで例えることがあるが、僕はキリギリスのような滅び逝く存在のようだ。しかし今現在の研究では、蟻の世界にも一定数の怠け者がいるらしく、それはそれで生物種を存続させる戦略ではあるそうだ。
しかしそれでもやっぱり僕は蟻ではなく、冬を乗り越えられない、生態系の外集団のようだ。


震災から、暫くは震災復興の仕事をしていた。
少しみんなハイになっていたようで、現実逃避をするように人の為みんなの熊本と瞳を輝かせて働いた。
芸能人やテレビ局がきた。
日本中からボランティアがきた。
人、モノ、カネが集まった。
震災バブルが続いた。

そしてすべてがなくなった頃、現実を見ることになった。あれ?家ない仕事ない、何もない?僕たちは難民になっていた。そして仮設住宅での隣人の死を聞いた。心に穴がポッカリあいてしまう住人が沢山いた。

時に人の善意や過剰なポジティブ感情は、被災者にとって毒になることがある。そう自分で乗り越えることや働くことの放棄が始まるからだ。そして理想と現実のギャップに押し潰される。
しかし僕のような考えの人間からすれば、こんなことは他愛もない、ごく当たり前の日常であり、いつものように酒に読書、孤独を楽しむには事足りる環境だったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?