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『紀貫之』 大岡信

 

ひとり遅れの読書みち   第17号



    正岡子規が「歌よみに与ふる書」の中で「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と厳しい指摘をしたことから、古今集の代表的な歌人であり集の仮名序の作者の紀貫之については評価が低いと、一般的に考えられている。そうではないのだと、大岡信は数多くの歌を例に挙げながら、また時代の背景や歴史をふりかえりながら反論していく。和歌のよみ方についても多くの示唆に富む書である。

    貫之の歌の「面白さ」に初めてふれた思いがしたという次の歌を、大岡はまず紹介する。

影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき

    「水底に空を見るという貫之の眼のつけどころ」に注目し、これが「逆倒的な視野の感覚」だと指摘。あるものを見るのに、それをじかに見るのではなく、水底という「鏡」を媒介としてそれを見る。「水は空を演じ、空は水の下を歩む。水と空はたがいにたがいの鏡となる」。すなわちたがいにたがいの「暗喩」となっているという。
    この「詩的な仕掛け、装置」というものに眼を向けたところに「新風」のひとつがあった。  語というものが、二つ、三つと重なり合い、関係づけられるときに生み出す「感興、刺戟、連想の強化促進」が「新鮮な発見」だったという。
    和歌は31文字という短小な詩形であり、ここに複雑な思いを盛ることはもともと極めて困難なこと。「自分の思いを盛り、同時に相手の関心をかきたて、あっと思わせる」ためには、この短小の詩に内容ある新味を与え複雑にする技巧が必要だった。

さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける

   大岡は、 この歌の「なごり」が「名残り」であると同時に「余波(なごり)」であると説明。もともとは「語源を共有し、映像としても互いに惹き合うところをもっている二つの語」が「一つに融け合って一首のかなめ」の位置に置かれる。この「微動する一語の周囲にゆらめいて」いて一首を「何度読み返しても」、がっちりした「像」が「眼底に結ばれる」という感じはしないという。

    風に散り遅れた桜花の幾ひらかが、水なき空の波のひきぎわにちらちらとさまよっている、というように歌を描写してみる。しかしそうした「映像」さえふと見えなくなって、あとには「ゆらめいている心の昂ぶりの、その痕跡だけが、名残りの余韻を引いていつまでも棚引いている」との感じになるという。
    そして一語一語の単独の印象よりは「語の連り」そのものから生じる「音楽的な持続する流れの感覚」は、古今集の特性なのだと分析する。一首の生み出す映像も、完結的な性質をもった「像」として結ばれるのではなく、むしろ「意識の流れそのもの」としてあらわれてくる。だからこそ目で読むよりは、耳で聞いた方があざやかな印象を与えるのだという。

    大岡の表現はやや難解かもしれない。ちょっと大胆に言い換えてみよう。つまりひとつの歌の描く内容や映像はひとつではない。同音の言葉を媒介として、あるいはそれを支点として、いくつもの映像が描かれていく。読む者の心はその映像の間を行ったり来たりして浮遊する。言葉の響きは心地よく、歌は大きな膨らみをもって広がっていくと。

    「やまとうたはひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」
仮名序冒頭の有名な書き出しに、貫之はそのことを示したのだろう。

    新古今時代の歌界の権威、藤原俊成は貫之の歌を高く評価した。それは何よりも「声に出して詠みあげたときに」「艶にもあはれ」にも聞こえるような歌を最高のものとしたからだ。ただ言葉を技巧的に使うだけではないところを見抜いていた。
    大岡は、仮名序の作者として貫之が日本詩歌史上最初の歌学者、詩論家であり、また土佐日記の作者として卓抜な批評家の眼が光っていると極めて高く評価する。
    「遠い時代の、紙の上にしか見出だせない人間ではなく、身近に呼吸している人間のように見えてきた」と大岡は記す。過去に生きていた人物ではない。すぐそばにいる歌人と思える。うれしい感覚なのだろう。

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