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『阿弥陀堂だより』:2002、日本

 上田孝夫は妻の美智子を連れて、故郷である信州の谷中村に戻って来た。高台にある阿弥陀堂を訪れた2人は、そこで暮らしている96歳のおうめ婆さんと会った。孝夫は彼女に、5年前に亡くなった上田せいの孫だと説明した。
 おうめは2人が来ることを聞いており、無医村の土地で美智子が診療所を開設することについて確認する。美智子は彼女に、月水金の午前中だけ勤務することを告げる。おうめは夫婦に、阿弥陀堂からの景色を見せた。

 小学校には村長や助役たちが集まり、美智子の歓迎会が開かれた。東京で大学病院に勤務していた立派な医者が田舎の村へ来てくれることを、誰もが不思議に思っていた。理由を問われた美智子は言葉に迷い、適当な理由を用意した。
 待機していた村の子供たちは、彼女に花束を贈呈した。帰り道、美智子は呼吸が苦しくなって座り込んでしまうが、孝夫が背中をさすっていると発作は収まった。孝夫と美智子は温泉を訪れ、疲れた体を温めた。

 翌朝、美智子は孝夫が用意した朝食を取り、家を出た。彼女は診療所として使われる幼稚園へ出向き、待っていた老人たちを診察した。孝夫は恩師の幸田重長を訪ね、体調について質問する。幸田は胃癌で余命は長くなかったが、治療を受けずに死を迎える覚悟を決めていた。
 彼は死ぬ時に備えて、所蔵していた大量の本を全て処分していた。孝夫は幸田と妻のヨネに、新人賞を受賞してから10年も売れていないことを自虐的に語る。幸田とヨネは、今が大切な時なのだから悔いの無いよう歩むべきだと優しく告げた。

 帰宅した孝夫の元へ、近所に住む主婦の田辺が広報誌「阿弥陀堂だより」を届けに来た。孝夫は彼女に、今後は自分が配達を引き受けると申し出た。孝夫が阿弥陀堂だよりを読むと、お梅に取材した内容がコラムとして連載されていた。孝夫は帰宅した美智子から、おうめが昨年に高血圧で倒れたので診察するよう頼まれたことを聞かされる。
 美智子は孝夫と共に阿弥陀堂を訪れ、おうめの血圧を測って問題が無いことを確認した。血圧が上がった理由を孝夫が訊くと、おうめは便所が無いので自分で掘っていたら倒れてしまったと答える。そこで孝夫は、自分が便所を作ると約束した。帰りに村の子供たちと遊んだ美智子は、別れた直後に涙をこぼしてしまった。

 次の日、孝夫が阿弥陀堂へ行くと、コラムの執筆者である小百合の姿があった。彼女は3年前に喉の病気を患い、声が出せなくなっていた。小百合は筆談を使い、孝夫やおうめと会話を交わす。阿弥陀堂を去った孝夫は町の老女たちに阿弥陀堂だよりを配り、様々な話を聞いた。彼は美智子を伴い、幸田夫婦の家を訪れた。
 幸田は診察を拒否し、大事にしていた日本刀を孝夫に譲り渡した。幸田が安心した様子を見せる傍らで、ヨネは目に涙を浮かべた。孝夫と美智子が去る時、幸田は「ワシのことなら心配要らんよ」と口にした。美智子はヨネに、幸田に何かあれば内緒で電話するよう促した。

 孝夫は美智子を伴い、渓流釣りに出掛けた。美智子にとっては初めての体験だったが、1匹の岩魚を釣り上げて興奮した。その日から彼女は、睡眠薬を使わずに就寝できるようになった。美智子は孝夫に、この村に来て良かったと嬉しそうに告げる。
 幸田夫妻の元を訪ねた2人は、強制連行されたシベリアから逃げ帰る際に子供を亡くしたことをヨネから聞く。その出来事について幸田はヨネに、その子の天命だと捉えていることを語っていた。お盆の時期になると、美智子は新しい仏壇の購入を孝夫に提案した。阿弥陀堂には村の老女たちが集まり、死者を弔った。

 村に来てから半年が経過し、美智子の評判は上々だった。彼女は村長から毎日の診察を依頼されるが、今まで通りのペースで続けることを希望した。最新の阿弥陀堂だよりに掲載されているコラムの内容を知った美智子は、小百合の肉腫が転移していることを孝夫に教える。
 それは美智子の専門分野だが、彼女は町の総合病院に小百合の手術を任せるべきかどうか迷っていた。孝夫は町の医者に経験が無いことを聞き、執刀を担当するよう促した。

 美智子は村の診療所の仕事もあることから、総合病院へ行くことに不安を見せる。孝夫は自分が送り迎えを担当すると告げ、彼女の背中を押した。孝夫は美智子を総合病院へ送った時、小百合の病室に顔を出した。
 3ヶ月分は阿弥陀堂だよりの原稿が書き貯めていることを聞き、孝夫は完全に良くなってから退院するよう小百合に告げた。美智子は孝夫に、担当医の中村が勉強熱心で自分の論文も読んでくれていたこと、信頼できる人物であることを語った。

 中村は美智子に、「先生のようなエリートは、もっと医学の最前線で仕事を続けるべきじゃないかと思うんです」と話す。すると美智子は微笑を浮かべて「貴方からすると落ちこぼれに見えるかもしれないけど、それでいいのよ」と言い、東京では理想的な医者であろうと無理をしていたことを語った。
 孝夫は小百合が病室でおうめの話を聞けるよう、文章にまとめようとする。しかし自然な言葉に耳を傾けた方がいいと思い、おうめの元を訪ねてテープレコーダーに彼女の音声を録音した。

 小百合は肺炎で体調が悪化し、美智子は中村と共に救命処置を行った。彼女は病院へゃって来た助役たちに、小百合が良くなるかどうかは五分五分だが全力を尽くすと告げた。休憩に入った美智子は、300人以上の最期を看取ったことを中村に話す。
 最期の1人を看取った時、彼女は元気の気が体内から抜けていった感覚に見舞われた。妊娠中だった美智子は流産し、孝夫に泣きながら「私は選ばれなかった」と漏らした。彼女は生きているエネルギーを「死」に吸い取られて体調を崩し、パニック障害を発症してしまった…。

 脚本&監督は小泉堯史、原作は南木佳士(文藝春秋刊)、エグゼクティブプロデューサーは原正人&椎名保、プロデューサーは柘植靖司&桜井勉&荒木美也子、撮影は上田正治、照明は山川英明、録音は紅谷愃一、美術は村木与四郎&酒井賢、編集は阿賀英登、衣裳協力は黒澤和子、音楽は加古隆。

 出演は寺尾聰、樋口可南子、井川比佐志、吉岡秀隆、田村高廣、北林谷栄、香川京子、小西真奈美、塩屋洋子、内藤安彦、荒野祥司、上野倶子、堀内久美子、清水順子、森山房江、大平サカ、武田久子、武田よき、武田敏子、永津敏子、大平ハツ江、宮川ヤツイ、永津美代、武田なつ、阿部千枝子、小林一二三、黒岩恒子、大月実、小林さくえ、小林美恵子、山崎ミヨ、丸山富治、丸山福治、吉澤三千男、武田誠、馬場彰ら。

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 南木佳士の同名小説を基にした作品。28年間に渡って黒澤明の助手を務め、『雨あがる』で監督デビューした小泉堯史が次に手掛けた作品。
 孝夫を寺尾聰、美智子を樋口可南子、助役を井川比佐志、中村を吉岡秀隆、幸田を田村高廣、おうめを北林谷栄、ヨネを香川京子、小百合を小西真奈美、田辺を塩屋洋子、村長を内藤安彦が演じている。小西真奈美は、これが映画デビュー作。第26回日本アカデミー賞で北林谷栄が助演女優賞、小西真奈美が新人俳優賞を受賞している。

 村の住人として、最初に北林谷栄を登場させたのは大正解だ。この人は「いかにも田舎の村に暮らしている老女」としての圧倒的な説得力を見せている。まるで本当に、その村に住んでいるかのような佇まいがあるのだ。それと同時に、冒頭シーンで、ほっこりした雰囲気に観客をいざなってくれる。
 「田舎の村に住む老女としての説得力」と言っても、決して素人っぽいという意味ではない。単純に「村の住人としてのリアリティー」が欲しければ、その後の診療所のシーンで出て来るようなエキストラの面々を使えばいい。そうではなく、芸達者なベテラン女優として、そう感じさせているってことだ。私は日本アカデミー賞なんて大した価値が無いと思っている人間だが、この映画で北林谷栄が受賞したのは正当な評価と言っていいだろう。

 ただし皮肉なことに、北林谷栄の芝居が上手ってことが、後で厄介な問題として響いてくる。孝夫が阿弥陀堂だよりを配り歩くシーンで村の老女たちから話を聞くのだが、その相手が全て素人なのだ。つまり台本に書かれた台詞を読んでいるわけではなく、本当に「田舎の村に住む老女」として質問に答えているだけなのだ。
 だから診療所のシーンもそうだが、当然のことながら素人っぽさが分かりやすく出ている。それによって北林谷栄のキャラが持つ「虚構」が、望ましくない形で目立ってしまう。それを考えると、素人の面々と交流するシーンは無くした方が良かったんじゃないか。

 素人の登場シーンが要らないと感じる理由は他にもあって、それは「そういう意味でのリアリティーが邪魔になる作品だから」ってことだ。この映画は「現実社会を思わせる」という意味でのリアリティーを、必要としていない。むしろ、寓話として捉えた方がいいだろう。
 「村には優しくて穏やかな人々ばかり」という部分だけでも、ある意味では嘘臭い。「都会に疲れた人が田舎で癒やされる」ってのは良く聞く話だけど、実際の田舎ってそんな場所ばかりじゃないからね。まだ旅行者ならともかく、外から来た人間が暮らすとなったら色々と問題が起きることもある。それは歓迎されるべき医者でさえだ。具体的な事例を知りたければ、ネット検索で出て来るだろう。

 孝夫と美智子が村の子供たちと大縄跳びで遊ぶシーンなんかも、ちっともリアリティーは感じない。それが悪いってことじゃなく、寓話としては微笑ましいシーンなので何の問題も無い。ただ、寓話としての作りに、綻びが出ているんじゃないかなと。小泉堯史監督が、どこまで寓話性を意識していたかは分からないけどね。
 素人を出したからといって、必ずしも寓話性が無くなるわけではないのよ。子供たちにしても、素人なわけだしね。ただ、老人のポジションは北林谷栄が強すぎるので、そっちに合わせた方がいいんじゃないかと。

 風景を映し出すカットが何度も挿入されるが、ここは場面転換のための繋ぎや、話のリズムを整えるために使われている。極端に言ってしまえばどんな映画でも同じだろうが、特に本作品のようなスローテンポで静かなタッチな作品の場合、そこで映し出される絵が作品全体の雰囲気を大きく左右することになる。
 だから、この映画であれば、田舎の美しい自然が使われているわけだ。それだけでなく、季節の移り変わりや月日の経過を表す効果もある。これって、意外に軽視する人も少なくないんだよね。

 美智子が村で診療所を始める理由は、最初は明かされない。ただ、質問を受けて言葉に詰まる様子や、呼吸が苦しくなって座り込む様子があるので、「東京で辛いことがあって精神を病んでしまい、田舎へ逃避せざるを得なくなった」という事情は容易に推測できる。そもそも何の問題も無ければ、月水金の午前中しか診察しないってのは変だからね。
 で、美智子の抱える事情が何となく見えれば、「彼女が田舎で生活したり人々と交流したりすることで心が安らいでいく」という話が展開されることも読めてくる。それは嫌な言い方をすれば、何の新鮮味も無く、色んなトコで使い古されたような話だ。ただ、それを手堅い演出で丁寧に描いているので、ただの既視感溢れる凡作には仕上がっていない。

 「心を病んだ女性が田舎で癒やされる話」は含まれているが、トップビリングはの寺尾聰は旦那の孝夫役だ。そんな孝夫は売れない小説家で、今は全く稼ぎが無い様子だ。ただし、いわゆる髪結いの亭主ではない。
 自分が10年も売れていないことを自虐的に語ったりもするが、それを全面的に受け入れているわけではない。新しい小説を世に出したいという思いは、ずっと持っている。ギラギラとした感情を表に出すタイプではないが、諦念に支配されているわけではない。ただ穏やかな性格というだけだ。

 そんな孝夫に限らず、この映画に登場する村の面々は総じて穏やかで優しい。だからこそ、美智子も順調に心が回復していくのだ。それを本作品は、ゆったりとしたテンポで淡々と静かに描いていく。
 そういう方向性が退屈に繋がるケースもあるだろうが、この映画では正解だ。大事なのは癒やしであって、刺激は要らない。ドラマティックな展開など、無縁で構わない。極端に言ってしまえば、最初から最後まで何も起きないままでもいいのだ。

 美智子は中村に村へ移住した理由を語った後、人間の一生について「今を良く生きることが、良く死ぬことかもしれないって思ってる」と言う。たぶん、これは映画のテーマに繋がる台詞なのだろう。誰にでも必ず死は訪れる。
 しかし、おうめにしろ、幸田にしろ、死が間近に迫っていようと、決して焦ったり怯えたりせず泰然自若としている。そして、がむしゃらに残りの人生を頑張ろうとしているわけでもなく、穏やかに自分なりの日常を満喫している。それこそが、「今を良く生きる」ということなのだろう。決して「懸命に頑張って、無理をして人生を駆け抜ける」ってことではないのだ。

(観賞日:2019年6月8日)

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