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『初恋のきた道』:1999、中国

 ユーシェンは村長からの長距離電話で父の死を知り、故郷である小さな村へ向かった。早くに村を出た彼は仕事が忙しく、帰省するのは数年に一度だけだった。父のチャンユーは、死ぬまで村の小学校で教師として働いていた。ユーシェンは一人っ子で、村で一人だけ大学に進んでいた。
 実家に戻った彼が母のジャオディを捜していると、村長と農夫のシアがやって来た。村長はユーシェンに、チャンユーの求めで校舎の建て替えが決まったこと、木材は揃ったが金は足りないことを語る。焦って金策に走り回っていたチャンユーは帰る途中で吹雪に遭い、具合が悪くなった。彼は県の病院で心臓病と診断され、そのまま息を引き取ったのだった。

 チャンユーの遺体は霊安室に安置されており、村長は明後日に車を出して村まで運ぶ予定だった。しかし村長はユーシェンに、ジャオディが担いで連れて帰ると主張していることを話す。「戻る時は、いつもの道を通れ」という昔からの言い伝えを大事にしているのだと村長は語る。
 しかし村に若い衆は残っておらず、村長は「トラクターを使えば半日で運べる」とユーシェンにジャオディの説得を頼んだ。母の居場所をユーシェンが尋ねると、シアはチャンユーが死んでから校舎の傍で座り込んでいることを教えた。

 ユーシェンは校舎へ行き、ジャオディに声を掛けた。ジャオディは「もう会えなくなったよ」と泣き崩れ、ユーシェンは家へ連れ帰った。ジャオディが「機織り機で棺桶に掛ける布を織る」と言い出したので、ユーシェンは「買ってくる」と告げる。
 ジャオディは自分で織ると主張するので、ユーシェンは「何十年も前の機織り機だ。もう壊れてる」と言う。しかし母が「修理してもらって」と頼むので、彼はシアに修理を頼んだ。

 ユーシェンはジャオディに、「担がなくてもいいだろ。トラクターで運んでも同じだ」と話す。しかしジャオディは「全く違うさ」と言い、「人手を探さなくちゃね。どうしても無理なら、私とお前で運ばないと」と口にする。
 ジャオディは徹夜で布を織り、ユーシェンは両親が結婚した当時の写真を眺めた。チャンユーはよその土地から村へ来て、2人の恋愛で村は大騒ぎになった。結婚した当時、チャンユーは20歳で、ジャオディは18歳になったばかりだった。

 チャンユーが村へ始めて来た日、多くの村人たちが彼を見るために集まった。ジャオディは少し離れた場所からチャンユーを見つめ、目が合うと恥ずかしそうな様子を見せた。彼女は家に帰り、母にチャンユーのことを話した。ジャオディは盲目の母と2人暮らしで、ずっと面倒を見ていた。縁談の話は多かったが、ジャオディは全て断っていた。
 チャンユーが来た時点で校舎は無く、村長は村人たちに数日で建てさせた。村の習わしで、新しい建物が出来ると験担ぎで赤い布を梁に括ることになっていた。その布を織るのは村で一番綺麗な娘だと決まっており、その時はジャオディが担当した。

 村には2つの井戸があり、誰もが近くの後井戸をで水を汲んだ。しかしジャオディはチャンユーが来て以来、学校の前を通るために遠くの前井戸を利用するようになった。家を建てるような大きな仕事では、それぞれの家から男たちに差し入れが振る舞われた。
 ジャオディはチャンユーが食べることを願い、毎日の差し入れを用意した。授業が始まると、ジャオディはチャンユーの朗読が聴きたくて学校に通った。村人が飽きてもジャオディは足を運び、それは40年以上も続くことになった。

 チャンユーは放課後になると遠くに住む生徒を送り、ジャオディは彼を待ち伏せた。ジャオディは林に隠れて遠くからチャンユーを見たり、偶然を装って反対側から歩いてきたりした。チャンユーが軽く会釈してくれただけで、ジャオディは嬉しくなった。
 チャンユーは彼女のことが気になり、生徒に名前や住所を尋ねた。ジャオディが学校まで来ていることを知った彼は、井戸へ水を汲みに行こうとする。しかしシアが「水汲みなら俺がやる」と言い、半ば強引に仕事を引き受けた。

 チャンユーは村役場で寝泊まりし、食事はそれぞれの家が1日ずつ交替で提供した。ジャオディは自分の番が来た時、張り切って用意した。チャンユーはジャオディの家を訪れ、母と話しながら食事を取った。ジャオディはチャンユーが自分の差し入れを食べていなかったと知り、落胆の様子を見せた。
 チャンユーの好物がキノコの蒸し餃子だと聞き、彼女は夕食に作ると告げた。チャンユーが去った後、祖母はジャオディに「作るのはやめるんだ。後悔する」と忠告する。祖母は「先生はいい人だが、住む世界が違うんだ」と諭すが、ジャオディは「食事を作るだけでしょ」と反発した。

 水を汲みに出掛けたジャオディは、チャンユーが村へ来た男性と言い争っている様子を目撃した。夕食を用意した彼女は、チャンユーが来てくれたので喜んだ。しかしチャンユーは「お別れを言いに来たんだ」と告げ、「どこへ行くの?」と問われて「家に戻る」と答える。
 「言い争っていた人が戻れって言ったの?」とジャオディが訊くと、彼は「質問したいことがあるそうだ」と告げる。「戻って来る?」というジャオディの問い掛けに、チャンユーは「必ず戻る。生徒も待ってるからね」と約束した。ジャオディが「いつ頃?」と言うと、彼は「遅くても冬休みに入る前日までには」と述べた。

 ジャオディが蒸し餃子を食べてほしいと頼むと、チャンユーは時間が無いことを告げる。しかし彼女の懇願を見て、「分かった、食べに来る」とチャンユーは言う。彼は「赤い上着に似合う」と告げ、ジャオディに髪留めを贈った。
 ジャオディはチャンユーが荷車で村を出たと知り、蒸し餃子の鉢を風呂敷に包んで後を追った。しかし坂で転倒し、鉢を落として割ってしまう。荷車は見えなくなり、家に帰ろうとしてジャオディは髪留めが無くなっていることに気付いた。彼女は辺りを探すが、見つからなかった。

 それから毎日、ジャオディは髪留めを見つけるために、遅くまで数十里の山道を探し回った。ようやく見つけた彼女は、それを髪に飾った。季節が過ぎて冬が訪れ、茶碗の修理屋が村にやって来た。
 母は鉢の修繕を頼み、新しいのを買った方が安く済むと言われると「使った人は娘の心を盗んで去った。せめて記念に直してやりたい」と語った。ジャオディは子供たちに掛け算を教えるチャンユーの声を聞き、笑顔で家を飛び出した。しかし学校に向かった彼女は、それが幻聴だと知った。

 ジャオディは校舎に入り、ボロボロになっている障子を張り替えて飾りを付けた。しばらく教室に留まっているジャオディの様子を見た村長は、彼女がチャンユーに恋していることを悟った。チャンユーが帰ると約束した日、ジャオディは朝から外に出て待っていた。
 しかしチャンユーは戻らず、ずっと冷気を受けていたジャオディは高熱を出して寝込んだ。母は諦めるよう諭すが、ジャオディは「会いに行って来る」と家を出る。しかし彼女は途中で倒れ、通り掛かった人の連絡を受けた村長たちが馬車で村まで運んだ…。

 監督はチャン・イーモウ、原作はパオ・シー、脚本はパオ・シー、製作はチャオ・ユイ、製作総指揮はチャン・ウェイピン、撮影はホウ・ヨン、美術はカオ・チュイピン、編集はチャイ・ルー、衣装はトン・フアミャオ、音楽はサン・パオ。

 出演はチャン・ツィイー、チョン・ハオ、スン・ホンレイ、チャオ・ユエリン、ビン・リー、チャン・グイファ、サン・ウェンチェン、リウ・シー、ジー・ボー、チャン・チョンシー他。

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 『上海ルージュ』『あの子を探して』のチャン・イーモウが監督を務めた作品。パオ・シーの小説が原作で、脚本も彼が担当している。ベルリン国際映画祭で審査員特別賞を受賞している。若き日のジャオディを演じたチャン・ツィイーは、これが映画デビュー作。
 かつて『紅いコーリャン』でコン・リーを抜擢し、『上海ルージュ』までコンビを組んだチャン・イーモウにとって、彼女は新たなミューズとなった。この作品の後も、『至福のとき』『HERO』『LOVERS』で彼女を起用している。他に、チャンユーをチョン・ハオ、ユーシェンをスン・ホンレイ、老齢のジャオディをチャオ・ユエリンが演じている。

 『ローマの休日』がオードリ・ヘプバーンの可愛さを堪能する映画だったのと同じように、これはチャン・ツィイーの可愛さを堪能する映画である。「とにかく女優デビュー間もない頃のチャン・ツィイーが、ひたすら可愛くてたまらない」という感想だけで充分だ。
 本当に美味しい物を食べた時には色んなコメントなんか浮かばず、ただ「美味しい」という言葉しか出て来ないだろう。それと同じように、この映画は「チャン・ツィイーが可愛い」だけでいいのだ。他に余計な物など要らないのだ。

 とは言え、それだけで批評を終わらせてしまうのもマズいだろうから、余計だと分かった上で、あと少し続けよう。映画はモノクロの映像で始まり、若い頃のジャオディとチャンユーを描く内容に入るとカラーに変化する。たぶん、「過去の出来事は鮮やかな思い出であり、チャンユーが死んだ現在は色が無くなってしまった」みたいな狙いなんだろう。
 ただ、それは仕掛けとして失敗だろう。なぜなら、この映画はユーシェンの語りで進行しているからだ。現在のシーンは「ユーシェンの現在」であり、過去についても彼が語っている。なので、彼の体験していない過去が色鮮やかで現在がモノクロってのは、整合性を欠いている。っていうか、どっちもカラーでいいし。

 チャンユーは決してイケメンとは言えないし、都会的で洗練されているとも言えない。これは「日本人と中国人の感覚が異なる」ってことじゃなくて、たぶん中国人の感覚でもいイケメンとは言えないだろう。しかしジャオディは、彼が来た途端に惚れている。つまり見た目で惚れたってことになるが、そこは気にしちゃいけない。
 っていうかチャンユーがイケメンだと、その作品の趣が大きく変化してしまう。チャンユーが今一つ冴えない風貌だからこそ、そんな彼に惹かれるジャオディの可愛さが引き立つのだ。

 ジャオディとチャンユーの恋愛劇は、そんなに上手く描かれているとは思えない。最初の頃のジャオディは、かなり遠慮がちだし、ずっとチャンユーとは距離を置いている。生徒を送るチャンユーを待ち伏せる時でも、会釈されただけで喜んでいたほどだ。
 ところが、食事の番が来た前日のシーンでは、自分から積極的に話し掛けている。そしてチャンユーが食事に来た時も、村を去ると聞いた時も、かなり自分の気持ちをハッキリと示している。一方のチャンユーも、まだ食事を取っただけなのに、髪留めをプレゼントしている。2人の心の距離が、急激に近付き過ぎていると感じる。でも、その辺りも、あまり気にしないでおこう。

 若い頃のジャオディ、つまりチャン・ツィイーが登場した時に、「そんなに可愛くないな」とか、「顔がタイプじゃないから魅力的だとは感じないな」という感想を抱いたら、この映画を観賞するのはやめた方がいいだろう。その後も観賞を続けたとして、絶対に満足できないだろうし、時間の無駄だ。
 この映画は前述したように、チャン・ツィイーを堪能するってのが全てと言ってもいい。そこが生命線なので、彼女を見た目で可愛いと思えなかったら、もう終わりなのだ。

 さて、ここからは「チャン・ツィイーが可愛い」と思えたと仮定して、具体的に「どこが可愛いのか」という説明に入ろう。まず最初は、チャンユーと目が合って慌てて視線を逸らし、少しキョロキョロしてから再び視線を戻す様子。家に帰る際、たまに後ろを振り返りながら、あまり綺麗とは言えないフォームで走る様子。
 井戸へ水汲みに出掛け、チラチラと校舎にいるチャンユーを気にする様子。屋外の長机に差し入れを置き、チャンユーが食べてくれるかドキドキしながら眺める様子。

 生徒を送るチャンユーを待ち伏せて、林に入って遠くから眺める様子。偶然を装い、反対側から歩いて行く様子。チャンユーに会釈され、嬉しそうな表情になる様子。食事に来るチャンユーを出迎え、少し下を向いてはにかむ様子。
 村を去るチャンユーにキノコの蒸し餃子を食べてもらえないと知り、駄々をこねる様子。父が村を出て泣き出す様子なんかは、ギュッと胸を締め付けられる。髪留めを見つけて笑顔で付ける様子、チュンユーが去ったことを思い出して寂しそうな表情へ変化する様子も、切なさ満点だ。

 チュンユーの声を聞いて嬉しそうに飛び出すが、学校に彼がいないことを知って辺りを見回す様子。冷気にさらされながらもチュンユーを待ち続ける様子や、高熱を出したのに吹雪の中でチュンユーの元へ向かおうとする様子などは、一歩間違えればストーカーだ。
 しかし互いに惚れ合っていることは確定事項なので、何の問題も無い。とにかく、純朴でウブで、一途だけど奥ゆかしさもあるジャオディの一挙手一投足を堪能し、その愛くるしさに魅了されればいいのだ。

 ただ、そんな風にチャン・ツィイーを堪能する映画となっているため、終盤に入って現在のシーンに戻った時、「もう実質的に話は終了している」という印象になってしまう。ユーシェンが登場するシーンは、ほんの少しでいい。っていうか、実は完全にカットでも全く問題は無い。むしろ、そっちの方が歓迎できる。
 その終盤のシーンでは、ユーシェンが母の気持ちを汲んで父の遺体を担ぐと決めたこと、父の教え子が大勢集まってくれたことが描かれるが、そこには何の感動も無くて、どうでもいいとしか思えない。回想シーンの内容は明らかに「ジャオディのチャンユーに対する恋心」を描くモノであり、チャンユーと生徒たちの絆なんて全く描かれていないんだし。

 ユーシェンたちがチャンユーの遺体を担ぐ葬列シーンが描かれ、それで映画が終わるのかと思いきや、まだ話は続く。そこでは教え子が金を受け取らなかったこと、新しい校舎が建てられることに触れ、ユーシェンが教室や自宅で母と話すシーンに続く。
 でも、全て蛇足にしか思えないんだよね。っていうか、もっとハッキリ言ってしまうと、もはや終盤に入って現在のシーンに戻って来た時点で、蛇足に感じてしまうのよね。

(観賞日:2019年4月28日)

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