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「今日はいい日だった?」から価値観を捉える

特別何も起きなかった日というのは、とても凡庸でつまらない日のようだが、実はそうでもないということを最近知った。もちろん、新しいことを学んだ日だとか、感情が揺さぶられることが起きた日というのは記憶に残る。たとえそれが痛いとかつらいとか、あまりいい方向の記憶ではなかったとしてもだ。では、淡々と目の前の物事をこなしていく日はどうだろうか。天から降ってきたような閃きがあったわけでもなく、時間対効果は相応で、まあそんな感じだよね、という進み具合。そして怒られるわけでも、褒められるわけでもない日がある。さて、こういう日はいい日なのだろうか。

そんな日ばっかりだよ、という人はきっと激しい出来事を求めるだろうし、激動の毎日を過ごしている人は、平凡な日常を求めるだろう。だから、結局先ほど書いたような日がいい日なのかどうかなんて、その人の状態次第である。一般化はきっとできない。だからこそ、そういう日が「自分にとって」いい日なのかどうか、というのは考える価値があると思う。こういう日が人生の中で何日くらいあったら張り合いがあるなあ、とか、何歳までは飛び回ってても大丈夫かな、とか。こういう些細な幸せを作る部分というのは、人生の岐路に立った時に考えるのでは時間が足りなくて、その時の状態で判断してしまいがちな部分だと思っている。「どんな日々を過ごしたいか」というのは、いろんな毎日に直面し、直面するなかで考えてやっと導き出される答えなのではないかと私は思う。人生の岐路はいきなりやってくることもあるけれど、進学、就職という分岐点は意外とカウントダウン式でやってくる。来るぞ、来るぞ、と言っているうちに当事者になり、慌てる人も少なくない印象だ。来るとわかっている日のために、日々自分の価値観を捉えようとすることは多分、無駄じゃない。

そして、もう一つ。夢を語るのは簡単だが、実際に叶えようすると、かなえられない人と叶えられる人に分かれる。叶えられない理由は星の数ほどあるだろう。その中で、直面する現実を夢の形にあてはめられずにあきらめる人もいるような気がする。例えば、水を飲みたい場合、器で飲む、手ですくって飲む、直接口を近づけて飲む、など色々方法がある。はたまた自分で器を作るのか、器の素材は何なのか。広げていけばその方法なんて数えきれない。まさか水を飲むのに、ガラスで丸底のグラスで飲まなければいけない、なんて決まりはないだろう。でも、中には自分はガラスのコップを手に入れられなかったから飲めない、と思っている人がいるのではないだろうか、ということだ。実際、私もまだこの考え方から完璧には抜け出せていない。夢を実現する方法は1つじゃないという事実は認識したほうが目標達成は簡単になる気がする。そして、方法はたくさん頭の中にあったほうが、気持ちも楽になる気がする。

生きるというのは難儀なものだ。考えなければいけないことが多すぎる。他者から勝手に評価もされる。いろんな人が助けてくれたり、助けを求めることもできるけど、それを求める決定をするのも自分だ。自分の価値観を捉えることは、生きていくうえで大切な要素なのではないかと私は思う。

今日は非常に穏やかな日だった。私には、こんな日が週に4日くらいあったら、仕事がはかどっていいかもしれない。




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