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授業ノート:リフレーミング

新しい何かを始めたくて、独りから、世の中へ拡げていく。とはいえ、とりあえず気の利いたアイデアがないと、始めるものも始まらない。そんな「ブランド」の実存的な悩みをぶつけられ、応える方法はないかと探していたところ、

「最近話題の」リフレーミング/NLPである。言葉の手触り的に、何かの「解」につながりそうな気がしたが、信じて真面目にやらないと、成果に結びつかない感じでどうも気が乗らない。

自分に何ができて、何ができないことを考えては、やるべきことが見えない。むしろやりたいことから、離れていくばかり。やりたいこととやるべきことは違う気がして反発する、そんな凡多にとっての方法論を探し始めた。

十牛図:自分探しのフレームワーク(というリフレーミングの手法)

禅の境地を衆生を伝える十枚の図と詩文。序(じょ)、頌(じゅ)があるが、絵から読み取れるストーリーを中心にまとめてみるとこんな話である。

ある牧人が、逃げ出した一頭の「牛」を、一人捜索に出かけた。もう見つからないとあきらめそうになった時、足跡をみつけ、諦めることを止めた。「自らを灯明とせよ(自分を拠りどころとせよ)」しばらくして、「牛」の姿を見つけ、格闘の末「牛」を捕まえ、ともに家路につく。帰家の後、「牛」を忘れ、やがて「自分」も忘れる。そして「自らのやるべきこと」を理解し、街へ出る。

絵が変わると微妙に受け取る感じが違ってくる気がするが、ありがたみだけはなんとなくわかる。しかし、そもそも「牛』がなんなのかが分からないのが、悩みなのだ。十牛図の目的は、尋牛(じんぎゅう)以前のゼロ地点で、すでになにかの喪失感に囚われた聴き手の意識に、「牛」を探しにいくよう促すことにある。そのための、イニシエーションであり、帰郷のストーリーなのだ。ただし、最初の衝撃は、①の尋牛(じんぎゅう)の段階にある「自分」の出立(セパーション)の物語りによって始まる。

神話的な思考法を援用する

これもNLPの方法論(ヒーローズ・ジャーニー)ではあるが、もはや室町時代の心性へ直にアクセスするよりも、西洋的な物語、小説の洗礼を受けた後の「自分」にとっては、ジョセフ・キャンベルの神話的発想に惹かれる。民族文化に散種する前の原現人類の物語である。

出立(セパーション):旅に出るまでの英雄流動段階を、「冒険」への召命から、召命の辞退(逡巡)、超越的な援助(介入)、最初の越境(試練)、闇への航海(混沌)のシーンを辿るものとして記述する。どんな英雄であっても、最初は驚き、反発し、巻き込まれ、どうしようもないまま、旅(本当のイニシエーション)を始めることとなる。

この手法は、モダニズム文学で、ジェームス・ジョイス(1882-1941)がやっていて、1904年6月16日の一日(午前8時から深夜4時まで)を、中年の広告取りの主人公が、ダブリンを彷徨する物語とも関係がありそうだ。

「冒険」:これだけはあきらめる時に本当に哀しいと思うような何か。そのためには戦うことを厭わない何か。

他人が聴いても共感されるような夢の記憶(物語)として、今までの「自分」を表現することがスタート地点になる。できれば言語的でない方が良い。

自分が自分の小説の主人公だったら、私(主人公)を説明するための10のシーン


・もし自分が「○○」という召命を受けてしまったら、何をするか?(逡巡しながらもやること)

・それは、どんな「冒険」になるのか(イニシエーションと、物語の終息、そして帰郷と祭り)

ということを夢想しながら、「主人公」のキャラクターを考えてみる。どんな子供時代で、誰が友達で、誰とも違う自分は何か?をエピソードでコラージュする。例えば、

雨をふらしてみようと考えたこと。妹たちの兄になったこと。サンタクロースに会ったこと。音楽に何度も救われたこと。その時々の友達。座禅やヨガに学んだこと。愛情(自分一人では生きてこれなかったこと)、日食、オーロラ、なんとか生き延びてるパンデミック。今に至る自分の因縁と機縁、云々。。そこには、権威にはとりあえず噛みついてみなければ気が済まない質でもなんとかやってこれた理由があるはずだ。

子供部屋が散らかるのは、モノの片付ける場所が決まってないから

自分のプランニングシステムをつくる。その時々の興味関心をストックして、自由に改変し続けられる、自分だけの仕組みをつくる。「正しく、面白い」自分が一番楽しいプランニングのプロセスの設計。それがあっての、チャンスオペレーションだ。子供部屋が散らかるのは、モノの片付ける場所が決まってないからだそう。まずは本当に大切なことから、片付ける場所を決めておく。そうしたら、必要な時は取り出して思う存分遊ぶことができるのだから。

人生の記憶すべき出来事を収集する。

デザインシンキングは、文化人類学(参与観察)の知見を活用している。カルロス・カスタネダの最後の著作「無限の本質」のテーマ「人生の記憶すべき出来事」の意味が、長らく分からなかった。「記憶すべし」という「意図」は、記憶の断片を収集し、選別し、「記憶」というカタチに残すプロセスを生成する。しかし、なぜ、あのテーマをもって、「無限の本質」は終わっているのか?最後から、最初に向けてもう一度読み直してみようと思う。

ボード(作成中)




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