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短編314.『オーバー阿佐ヶ谷』14

14.

 その夜、私はいつも通り『ソルト・ピーナッツ』に行った。酔っ払う為に、我が世の春を無駄とする為に、演出家の男から更なる怪物譚を聞き出す為に。日付け的に遡れば、今日の深夜に怪物と遭遇したのだが、歳のせいもあってか、もう何年も昔のことのように感じる。遠い昔はつい最近のように、数時間前は山のあなたの空遠く。そうやって記憶は曖昧に混ざり合い、人生はその色を深め、歳だけはしっかりと取る。

 私はランダム味の酒を頼み、演出家の男を待った。二杯、三杯と杯を重ねるにつれて、苛立ちだけが増していった。客は入れ替わるが、目当ての人間だけは姿を見せない。いずれ来るのが女ではないのに、こうも待ち焦がれている自分が無性に腹立たしかった。四杯目を注文する傍ら、私は尋ねた。「昨日いた演出家の男、今日は来ないの?」自分がゲイなのではない、ということを強調する為に、あくまでもさりげなく。

「殺されたよ」と店主は言った。昨日は酔い潰れて寝ていた男とは思えないほど聡明な声だった。
「殺された?なんで」
 急転直下に物事はその様相を変えていく。肺が空気を取り込み、心臓が血液を廻し、肝臓が解毒したものを腎臓が濾過し膀胱へと流す、そんなどこにでもいる当たり前の人間でも次の瞬間には肉と骨の塊と化す。別れの挨拶はそのまま永遠の決別となり、交わしたくだらない冗談は温かい思い出へと変わる。いや、そこまで親しかった訳じゃないが、それでも。死者を想うことは物事を美化させる。
「そんなこと俺にも分からん。さっき警察が来て色々聞かれたんだ。俺も充分に混乱してる」と店主は言った。

 店主が警察から聞いた話を総合すると、あの演出家の男は『ソルト・ピーナッツ』を出た後、すぐに殺されたらしかった。家に帰る途中の阿佐ヶ谷の暗がりで。死因は撲殺による頭蓋骨陥没とそれに伴う脳内の大量出血。凶器はまだ見つかっていない。加害者と思しき者も未だ闇の中。怨恨と通り魔の両面で操作中。今は演劇関係者を中心に当たっているらしい。
 よくもまぁ警察からの尋問の中、ここまで情報を絞り取れたものだ。店主の磨き抜かれたコミュニケーションが羨ましいくらいだった。

 我々の話を又聞きしていた他の客達は静まり返った。店全体で通夜のムードでも出そうか、というみたいに。ーーー死んだ?嘘だろ。これで永久に怪物の謎はそのままとなってしまうのか。
 いや、まだ希望はある。それは目の前、手の届くところにある。阿佐ヶ谷でSince 1969から営業している、この年老いた『ソルト・ピーナッツ』店主ならば、何か知っているかもしれない。”怪物”は他ならぬ阿佐ヶ谷の都市伝説なのだ。私は酒を受け取りながら、店主に尋ねた。

「あの演出家のおっさんが言ってた”怪物”の話、あんた何か知らないか?」
「怪物?何のことだ」
 訝しげな眼差しを向けられる。でも、そんな目で見られるほど酔っちゃいない。
「あんたも昨日聞いてたろ?」
 あの時、店にいたのは我々三人だけだった。私と演出家の男と、この店主。場の共有者のうちの一人はもう抜けてしまった。残念ながら、とでも言うが正しいか。
「俺は酔っ払って寝てたから知らん」
「別に演出家のおっさんが言ってたことじゃなくても良いんだ。何かーーー」
「お前もいい歳してそんな夢物語を追うのは止しとけ、止しとけ」

 届いた酒はストレートの焼酎だった。それは私が希求し、注文したそのものだった。





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