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短編143.『綺麗なままで終わればいいのに』

 ーーーこれは本当に”俺”という認識で良いのだろうか。

 見下ろした先にあるキノコは天に歯向かうバベルが如くそそり立っていた。

 目の前には名も知らぬ女の濡れた御満弧。

 今か今かと、ひくついている。

 実に爽快な姿だ。

 世界中の男たちは今もこれを見たくて生きている。

 全てはこのキノコが勝手に行動した結果に過ぎない。

 よって私に、欲も無ければ罪はない、と言える。

 …だろうか?

          *

 安っぽい間接照明が二人の肌を照らしていた。汗と何かの染みが灰色のシーツを濡らしている。

「愛のないセックスは炭酸の抜けたビールみたいなものだね」
「…でも、酔える」と女は言った。
「そうだね。だけど、後味は良くない」
「味なんてみんな一緒よ」

 冷たい時間が流れていた。氷の欠片が仙骨あたりを伝っていくような幻想的緊張感。興奮、は全て出し尽くしていた。今ある私は蝉の抜け殻。何もない。

「そこに硬い肉さえあればいい、と」
「食べるならレア、呑み込むならウェルダン」
「そして、サイズはミディアム」

 まるで自分が村上春樹の小説の主人公にでもなったかのような錯覚を覚える。私はハルキストではない。原理主義者だ。村上主義を貫く生粋の。
 ーーーシチュエーション、と僕は思った。愚息を握って、レゾンデートル、と言って欲しい。

「結婚ってどんな気分?」
 女は私の左薬指に触れた。
「突発的に口へと放り込まれたガムを噛んでいるようなものだね。何年もの間」
「味の無くなったガムを噛み続けるなんてよほどのもの好きなのね。吐いて捨てた方が楽でしょ」
「相手の吐いた言葉を信用出来なくなったら、それはもう終わりの合図だろうな」

 テーブルの上にはコンビニで買った缶チューハイと食べかけのサンドウィッチが乗っているだけだ。ひと欠片のサンドウィッチすら食べるのがもどかしいほどの性欲とはどのようなものだったのだろう。それはもう既に失われてしまっている。影も形もなかった。そんなものが自分にあったことすら信じられないほどに。もし仮に”あった”とすればそれはゴムに包まれて死んでいる。

「一つ聞いてもいいかしら?」と女は言った。
「さっきの質問が”もののうち”にも入らないのなら」
 女は私の煙草に火を点け、煙を吐いた。
「もし私が『また会いたい』、って言ったらどうする?」

 状況によって最高にも最悪にもなり得る言葉。それが『また会いたい』だ。”言葉”の持つ両義性がそこには凝縮されている。

「その時は、金を払うだろうな」
「大人、なのね」
「女の云う”大人の男”っていうのは自分にとって”都合の良い男”の言い換えでしかない」
「それはきっとお互い様よ」

 煙草のフィルターに色濃くついた口紅は寂しくなるほどの赤だった。


#ベットサイドストーリー #大人の会話 #村上春樹 #ハルキスト #村上主義 #小説 #短編小説

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