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短編342.『オーバー阿佐ヶ谷』42

42.

 〈ソルト・ピーナッツ〉と【演劇集団 暗愚裸座】を核として、逮捕された店主/殺された演出家/かつて二人と同じ劇団だったという元女優。小牧亨にしても(遥か昔に退団したにせよ)この劇団にいた訳だし、小石川真妃奈は現役の劇団員だ。そして、その不可思議な引力に引き寄せられてしまった哀れなラッパー。なんだか役者が勢揃いした感がある。
 界隈に巣食う怪物の謎は残ったままだが、それすらもはや手の内にあるような気がする。

 『バガボンド』一乗寺下り松・吉岡一門七十人斬りにて武蔵が真っ先に総大将 植田良平を斬ったシーンに倣い、いきなり核心へと切り込むことにした。
「”お姉さん”は怪物について何を知ってる?」ーーーお姉さん、とはいえ七十オーバー。お世辞にしては些かオーバー。
「あんたもそんなもん信じてるのかい?」
 手答えがあった。刀が側頭部を削いだような手答え。
「教えてくれ。どんなことだっていい。それが怪物に関することならあんたの特殊性癖だって構わないから」
「怪物なんて、阿佐ヶ谷スターロードに根を生やしたロクでもない噂だよ」
「でも俺はこの目で見て、その背中に触ったんだぜ。リアルに」ーーーあの陰毛の如き手触りが蘇る。

「そうなんだね」老婆は溜め息をついた。私の手に残るかりそめの陰毛を吹き飛ばすように。
「初めは他愛もない冗談だったんだよ。そんな”もの”がいたら良いな、ってくらいの。仲間内で酒の肴さ。でも、それは次第に形を持ち始めた。酔っ払うたび何度も話すうちに輪郭が出来上がり、肉が付き、魂が宿る。そんなことって本当にあるもんだね。ある日、劇団の中の一人が『見た』って言い出したのさ」老婆の眉間に刻まれた皺。その一本一本から滲み出す記憶。「初めはみんな馬鹿にして信じなかったよ、勿論。だって作り話だったんだから。でもソイツはあっという間にスターダムにのしあがった。アタシ達に後ろ足で砂をかけるようにしてね。まるで猫のフンさ」

 長くなりそうなので、煙草に火を点けた。「一本くれるかい?」と言われたので渡して火を点けた。ーーー本当は無性に”草”が吸いたかった。天下の往来で吸えるようになる日は生きているうちに来るだろうか。

「その後も何人か続くように、劇団内で『見た』って奴が出てきたのよ。明らかな嘘つきを除けば、『見た』って言った人間は例外なく売れっ子のスターになっていった。アタシらの目から見れば、何の才能もないような奴でも」
「ーーー嫉妬かい?」
「どうなんだろうねぇ。『忙しくなってきたし、阿佐ヶ谷から引っ越す』ってんで、手伝いに行った時のあいつらはでも全然幸せそうじゃなかった。テレビに映る姿は輝いてはいても私生活は空っぽのもぬけの殻。夢を追ってた頃の目の色とは全く違って乳白色の靄でも掛かってるみたいに見えたね」そこで言葉を区切った老婆は淡く笑った。「これが『売れなかった人間の嫉妬』って言われりゃ、それはそうなのかもしれないけど」
 老婆はどことなく菩薩を思わせる横顔をしていた。慈愛と安心感と温もり。それはイッた男を幾多も包み込んできた女から滲む優しさだった。





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