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短編335.『オーバー阿佐ヶ谷』35

35.

 真妃奈の顔は昨日最後に別れた時より随分と青白くやつれているように思えた。両手で肘の部分を抑え、微かに膝が震えている。その姿は何かから必死に自分を守っているように見える。私は真妃奈を団地の外へと連れ出した。三時過ぎの太陽は土曜二十八時に於けるクラブダンサーのように持てる気力の全てを振り絞って踊っていた。

「何を見たんだ、一体」と私は尋ねた。
「ここ、ワタシが生まれ育った団地なんです」と真妃奈は言った。「四階の402号室」
 どうやら私の質問に答える気は無さそうだった。
「都営団地はペット禁止なんだけど、ママが内緒で猫を飼って良いよ、って。でも他の人たちには秘密よ、って」虚ろな目をしていた。「パパは早くに死んじゃって、ママの再婚相手はどうしようもないクズでーーー」
 突如として始まった真妃奈の自分語り劇場を私はただ黙って眺めるしかなかった。小牧にしろ、真妃奈にしろ、怪物に遭遇した人間は自分語りをしたくなるものなのかもしれない。まだスタンディングオベーションをするには早かった。真妃奈は続けた。
「今はここから五分くらいの新しく建った団地に移ってるんだけど、でも時々こうしてママとトラ吉とーーーあ、トラ吉っていうのは飼ってた猫の名前ねーーー三人で暮らしてた頃を思い出したくて、この場所に来るの」

 ーーー乱雑に繋げられるWord、俺は持ってるぜweed。
「ちょっと落ち着けよ。”草”でも吸うか?」私は煙草の箱に入っていた吸いかけの”ジョイント”を真妃奈に差し出した。「結構、”良いやつ”だから足腰にくると思うけど」
 真妃奈は潰れて黒くなったペーパーの先端に火を点け、ゆっくりと肺に空気を溜めた。ややあって鼻から吐き出された煙は甘く、干し草のような香りがした。

 一連の動作を眺めるにつけ、
 ーーーこいつ、慣れてやがんな。
 と思った。

「ワタシはただ実家を、あの男の元を、離れたかっただけ」真妃奈は親指と人差し指で摘んだ”ジョイント”をもう一度吸ってから、団地の壁に投げつけた。薄汚れた白の壁に当たって火の粉が弾け飛んだ。「別の場所で別の誰かになりたかった」
「それで演劇を?」
「本当は芝居じゃなくても、何でも良かった」真妃奈は自分の煙草を取り出し、火を点けた。パーラメントの1ミリ。ストローみたいに細長いやつだ。「ただ当時付き合ってたカレシが役者やってて、そのアパートに転がり込むような形で阿佐ヶ谷に引っ越したから、なんかそのままズルズルと」
「よくある話さ」ーーーああ、全くよくある話だ。
「ワタシの夢って何なんですかね?」
 私に尋ねている、というよりは自分自身に語りかけているようだった。だから何も言わず、黙っていた。

 真妃奈はパーラメントを何度も何度も口元に持っていっては、結局吸わずに唇から離した。
「今朝、形だけ所属してた事務所から電話があって『ドラマの仕事が決まった』って」
「でも、全然嬉しくなくてーーー」私は真妃奈に代わって後を継いだ。「ーーーだろ?」
「贅沢、ですよね」
「今も底辺を這いつくばっている人間からしたらな」
「ごめんなさい」
「でもきっと人生ってのはそういうもんだと思うぜ?【それを強く望む者は手に入れられない】。なんだか聖書の一節みたいだな」
 私は胸の前で十字を切った。それが正しいのかどうかは分からなかった。

「なんか全部見通せちゃったんです。自分がこれからどんな人生を送って、何歳でどんな風に死ぬのかまではっきりと」
「随分と暗い顔だな。そこにスキャンダルやハードなプリズン生活でもあったのか?」
「平々凡々な人生。それがきっとワタシが望んでいたものなんだと思います」
「これから芸能界入りしようとする娘の台詞にしては随分慎み深いんだな」
 私は両手を眉間の前で重ね合わせた。尼さんが祈るみたいに。

 軽く吸われたパーラメントはそれに等しい薄い煙しか出さなかった。
「”怪物”っていると思いますか?」
「そりゃいるだろうね、勿論」私も自分の煙草に火を点けた。雨後の下水のように枯葉の詰まったアメリカン・スピリットに。「そうじゃなきゃ、世の中は良質なエンタメで溢れかえっているだろうからな」

 私の皮肉に気付いたのか、それとも気付くだけの知性と教養を持ち合わせていなかったのかは知らない。真妃奈はただ頷き、寂しげな背中だけを私の脳裏に残して、地獄(じっか)へと続く道のりを帰っていった。

          *

 太陽が沈もうとしていた。空は紅く染まり、世界を巻き添えにして燃え落ちようとしているみたいだ。あれで明日も昇ることが信じられないほどに。

 その日以来、真妃奈から再びの電話が掛かってくることはなかった。





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