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短編341.『オーバー阿佐ヶ谷』41

41.

 散らばっていく人垣の中に、未だ『ソルト・ピーナッツ』を見つめ続ける一人の老婆がいた。ーーー何か訳知りなのかもしれない。私は老婆に声を掛けた。若い頃はさぞかし男達を絶望の淵に追いやったであろう片鱗が覗く、その横顔に。
「夢のかけらでも探しているのかい?レイディー」
 老婆は、まさか人生の最期に三つ編みのラッパーにナンパされるとは思ってもみなかった、みたいな顔をしてこちらを見た。街場のブティックで買ったような柄物のシャツがコートの隙間から自己主張激してくる。それは派手を通り越して奇抜だった。
 老婆は何も言わない。ただそこにいて全てを見つめ続ける彫像みたいに。
「警官やらパトカーが凄かったけど、何があったか知ってる?」先の文言を打ち消すべく言葉を継ぐ。
「こんなことになるくらいなら、もっと早くに来てやるべきだったねぇ」と老婆は言った。
「なんだか当事者みたいな口ぶりだね」
 彫像ではないことに安堵した。ーーーもしくは私にしか見えない幻覚でないことに。

「アタシはこれでも昔、女優をやっててね。舞台の」
「分かるよ。今でも充分通用するくらいに綺麗だから」
 老婆は少し照れた。女性(レディー)の扱い方はアイスバーグ・スリムに学んでいる。勿論、反面教師として。暴力や脅しは使わない。使う必要もない。
「あいつらとはその頃からの腐れ縁なのさ」
「あいつら?」
「あら、あんた知らないのかい?この店の店主とこの前殺されたあの演出家、二人は元々同じ劇団の出身だったのさ。で、アタシがそこの看板女優だった、ってわけ」
 老婆は何万光年も離れた星々を眺めるような目をしていた。そこにはもう輝くことを止めてしまった星々の欠片が転がっているだけなんだろう。



#阿佐ヶ谷 #飲み屋 #スターロード #ソルトピーナッツ #小説 #短編小説

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