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短編343.『オーバー阿佐ヶ谷』43

43.

 初めは他愛もない酒の席での話だった。しかし、いつの間にか”願望”という名の想念は実体化し、現実にその力を及ぼし始めた。老婆の話を要約すればそういうことになる。
 才能のない人間の夢と引き換えにスターダムに押し上げてくれる装置、それが”怪物”らしい。生憎、私は才能の塊だったようで怪物の候補からは外された。というか、私の才能の輝きに気圧され怪物は自ら逃げ去った、とでも云うべきか。(ーーーまぁそんな具合に思うことで自分を慰めた)

「そいつらは夢を叶えた。死んだ目をしてようが成功者には変わりないだろ」
「成功ってのはそんなに大切なものなのかねぇ。たくさんのものを踏みにじってまで手に入れる成功なんて全然立派じゃないよ、あんた」老婆はフィルター間際、最後の葉の部分までゆっくりと吸い切った。「成功ってのは等価交換なんだろうねぇ。成功したいって思ったら色々なものを捨てる覚悟がいる。でもそんなの幸せなんかじゃないね。平々凡々で良いじゃないか」
 ーーー平凡な幸せ。確か真妃奈も言っていたことだ。架空とはいえハードなシチュエーションを生き抜く芝居の世界に身を浸しているとそういう思考になるのか?
「何かを得るためには差し出すものが無くちゃならない、って考え方は嫌いでね」と私は言った。「俺は全部手に入れるつもりだ。金も女も人気も地位も名誉も権力すら全てを」
「若いねぇ。”手に入れる”ことだけが人生の成功じゃないよ。どちらかといえば”上手く手放す”ってことの方が大事なのさ」老婆は吸い切った煙草を指の間から落とした。「でもそういうことも、この歳になってようやく分かることなんだろうねぇ」
 老婆が私を見る眼差しは稚児を見る目と大差なかった。 
 ーーー手放す気がなくても指の隙間からこぼれ落ちていった数々の宝物たちにレストインピース。

 老婆は続ける。この歳に足を踏み入れた人間はよく喋る。まるでそれがこの世に於ける最期の自己表現だとでも云うが如くに。
「成功や失敗そんなものーーー云々」云々云々…。
 私は話を手で遮った。このままいくと朝まででも喋っていそうだ。そうなると阿佐ヶ谷の路上に凍死体が一つ転がることになる。
「まぁ怪物のことは分かったよ。俄には信じられない話だけど、そういうこともあるんだろう。AB型の両親からO型の子どもが産まれるように」
「解決したんなら良かった。だったら怪物のことなんかさっさと忘れて堅実な毎日を送ることだね。せっかくこうして生きてるんだからさ」
 ーーー堅実か。私の人生に最も足りていない要素なのかもしれない。

「最後にもう一つだけ」私は指を一本立て唇につけた。まるで幼な子が内緒話をする時のように。「あんた、さっき言ってたよな。『もう少し早く来てやるべきだった』って。ありゃどういう意味なんだ一体?」
「ケンちゃんとマサキさん、ーーーあぁこの店の店主と死んじゃった演出家のことね。あの二人を放っぽっとくべきじゃなかった、ってことさ」
 ーーー【ケンちゃん】が店主で【マサキさん】と呼ばれる者が演出家のことだろう、多分。そのつもりで話を聞くことにした。
「あの二人は昔から仲が悪くてねぇ。主役をはれる人間の”さが”なのかもしれないけど、会えばいつもバチバチだったのよ」老婆は互いの人差し指をぶつけ合った。乾いた空気のせいで甲高い音が響いた。「最終的に、『このままだと劇団内の秩序を乱す』ってことで二人はクビになった。結局、それが原因でケンちゃんは演劇界から足を洗って、マサキさんはマサキさんで自分の劇団を立ち上げた。そこが二人の転機だと思ったんだけどねぇ」
 『ソルト・ピーナッツ』を見つめる老婆の目には涙。街灯によって照らされたそれはジルコニアのような虹色の光を放っていた。




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