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短編346.『オーバー阿佐ヶ谷』46

46.

 女はコートを脱いだ。薄いタンクトップの中央部は肉が盛り上がり、遙かなる山並み。少なくとも地元の人間に霊山として崇められていそうな威容があった。私も心の中で手を合わせた。

「ラッパー?」と女は言った。「人間に階級があるとしたら最底辺の人間じゃない」
「最底辺にいないと”成り上がり”という公式が成立しないからな。学校で習ったろ?で、あんたは普段何やってんの?」
「ジャズピアニスト」
「大して変わんねぇじゃねぇか」
「少なくともあなたよりは若いわ。可能性に満ち溢れてる」

 全身、棘のような女だ。どこを触っても血が噴き出る。この若さで今までどんな人生を歩んできたらこうなるのか。女の歳は二十そこそこといったところだろう。肌の張りも髪の艶も申し分なかった。二十歳。ーーータメ口?

「俺もアンダーグラウンドじゃ結構、名が知れてると思うんだけどな。でも、ラップとジャズじゃ”シーン”が違うからな、まぁ俺の名を知らないのも無理ないさ」

 この時代、指先一つですぐにバレる嘘をついた。でも、女にスマートフォンを操作する隙さえ与えなければなんとかなるだろう。ーーー今この場でだけ真実であればそれでいい。たしか『バガボンド』の武蔵もそう言っていた。少なくとも女の”洞窟”に【馬龍丑。】のサインを刻み込むまでは。太古の昔から男たちがやってきた壁画グラフィティを完成させるまでは。

 私は賞賛を期待して女の目を見た。それはとても冷たかった。
「その歳にもなってアンダーグラウンドにいるようじゃ、芽が出るのは骨になってからでしょうね」

 私は目線を外し、女の指先に目を落とした。体幹から伸びる白く細い腕に付いた岩のように硬そうな指先に。それは節くれ立ち、指先だけ別人のもののようだった。幼い頃からの修練が伺える。それだけで数々の非礼無礼を許せるような気がするほどに。私はフェイクではないミュージシャンには甘い男だ。ファラオの首筋についたムスクの香りみたいに。

「ちなみにラッパも吹いてるぜ。セッションしようや」
 私は机の下で親指を人差し指と中指の間にぶち込んだ。



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