「過剰サービス」に出会うと悲しくなる
1日に2つも通勤電車きっかけの投稿をするのも芸がないと思いつつ…。
帰りの電車で「過剰アナウンス」に出会った。
私の乗る電車はいつも、空調の使用状況(「現在は冷房を使用している」等々)をアナウンスするのだが、今日は一段とすごかった。
「ただいま、この電車は冷房を使用しております。なお、申し訳ございませんがすべてのお客様にご満足いただける設定にすることはできません。お客様一人ひとりで、衣類の着脱などでご対応いただきますよう、お願い申し上げます。繰り返します…」。
これを聞いて、なんとも悲しい気持ちになった。
きっと、車掌さんがここまで言わなくてはいけないのは、過去に空調に関して「異議申し立て」をした人がいたからだろう。過剰とも思えるアナウンスをすることで、こうした人にもなんとか納得してもらおうとしているのだ。
このことに限らず、「過剰なサービス」の裏には、そのサービス提供者に対して過去に何か過大な要求をした人がいるのだと思う。「過剰サービス」の背景には、「それをさせている人」の存在があり、それが私を悲しくさせる。
私自身、「究極のサービス業」とも揶揄される職業に就いていたこともあり、なんとなく、そんなふうに感じてしまうのだ。「言ったもの勝ち」がある程度まかり通ってしまい、そのようなお客様には後々のことを考えて「個別対応」という名の過剰なサービスをしてしまう。
話はやや変わるが、「◯◯たるもの、◯◯すべし」という言説は、近年、少しずつ、ほんの少しずつだけれど解体されてきている。
「男子たるもの~」、「女子たるもの~」、「日本人たるもの~」等々、これまでは「そうあって当然」とされてきたことも、「別にそれに従うことなんてないじゃん」というように、風向きが変わりつつある(実は、表に出てこない「◯◯たるもの~」はきっとたくさんあって、それで苦しんでいる人もきっとたくさんいるわけで、その問題をどうするか、というのもあるのだろうが…)。
それと同列に扱ってよいかどうかは議論があるところかもしれないが、「サービス業たるもの、客に尽くすべし」という言説だって、いい加減解体されてしかるべきなのでは、と思うのだ。
サービスを提供する側も、享受する側も、どちらも生身の人間。享受する側だけが大きい顔をしちゃぁ、アンバランスです。
往々にして人は、「相手に求めすぎてしまう」もの。そこは「足るを知る」で、「こんなにしてもらわなくてもいいや」と思いたいもの。「足るを知らない」のは、知識欲に関してだけで十分です。