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愛すべき障害アーティスト 「ロートレック」という男

障害、父との不和、差別、アルコール依存、性病、早死。
ロートレックの人生の辛い部分だけに目を向けると、彼のことを「障害による差別と闘った悲劇の芸術家」などと表したくなります。

しかし彼が残したもの、描いた絵や写真やエピソードを目の当たりにすると、そこには自由奔放に人生を楽しんだ底抜けに明るい一人の男を感じるのです。
そんな「愛すべき障害アーティスト」ロートレックの人生をまとめてみました。

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氏名 トゥールーズ・ロートレック
出身 フランス
職業 画家
1864年、南フランスの名門貴族の家に生まれる
1877年、13歳の時両足に障害を持つ
1882年、18歳でパリに移り絵画教室に通う
1891年、27歳の時ムーランルージュのポスターを手掛ける
1899年 34歳で重度のアルコール依存症により入院
1901年、36歳で死去

ロートレックが愛した「人」

名門貴族の家に生まれ両親から愛されて育ったロートレックですが、13歳の時骨折が原因で両足の成長が止まる障害をもってしまい、上半身は成長したものの下半身は子供のままで、大人になっても身長は150cmほどでした。
父親から疎まれ貴族社会で生きていくことを諦めた彼は、18歳でパリの歓楽街モンマルトルに引っ越し、画家の道を志します。
当時のパリはとても華やかな芸術の都。
父親は彼を疎んじはしましたが金品の支援は十分に行ったため、彼は金銭には全く困ることなくパリでの生活を楽しんだようです。
差別や偏見もありましたが、それでも底抜けに明るく人懐こかった彼は出会った人を心から愛し愛されました。
絵画教室ではゴッホやベルナール、スタンランなど多くの芸術家と親交を持ち、不安定だったゴッホに南仏行きを勧めたのもロートレックでした。
またパーティーを開いて友人をもてなすことも大好きで、彼が振る舞う不思議な手料理や食材のこだわりの入手法や調理法、粋な演出など人を喜ばせることが大好きだった彼の記録が今も残されています。

ロートレックが愛した「酒」

歓楽街に身を寄せてからの彼はキャバレーや酒場に日夜入り浸り、死の直前まで酒を愛し続けました。

お酒にまつわるエピソードも彼らしく個性的です。
・ワインの香り付けのためいつもナツメグを持ち歩いたり。
・入院中に酒瓶が仕込まれたステッキを持ち歩き隠れて飲んだり。
・彼が考案したカクテルが現代も残っていたり。

ビールやポルトワインを飲み、特に好んだのはアブサンでした。

アブサンとは、ニガヨモギが主成分の緑色をした薬草系リキュールのこと70%前後と度数が強く価格が安いため、当時のパリで大流行した

この酒を彼は愛飲します。それこそ周りから「ロートレックの絵はアブサンで描かれている」と言われるほどに。
実はアブサンは多くの中毒者を出したことでも有名で、ゴッホがおかしくなったのはアブサンのせいとも言われますが、ロートレックもまたこの酒に溺れ、必然的にアルコール依存症となり寿命を縮めることになりました。

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ロートレックが愛した「女」

冒頭に「上半身は成長したものの下半身は子供のままで」と書きましたが、実は少し違います。
両足の成長は確かに止まりましたがその間のモノは異常に成長したらしく、「俺は大きな注ぎ口のついたコーヒーポットだ!」と誇ったほどでした。
かつ性欲も人一倍あったため、キャバレーや酒場のダンサーや売春婦と次々に関係を持っていきます。
彼は障害を持ちながらも見事な肉食っぷりでした。

ごめんなさい、一瞬不倫をした時の乙武さんを思い出してしまいました

女にも溺れたロートレック。必然的に性病ももらってしまいます。
当時のヨーロッパの3大死因の一つだった梅毒を・・・。
過度な性欲によりますます寿命を縮めることになりました。

当時のヨーロッパの3大死因はペスト、コレラ、梅毒(またはチフス)
ちなみに現代の日本の3大死因は悪性腫瘍、心疾患、老衰

ロートレックが愛した「人生」

残された写真を見ると、彼が人生を謳歌した姿を感じ取れます。
左の2枚はさすがですね。100年以上前にもかかわらず、彼は現代でも通用しそうな前衛的でおしゃれな服装(おそらく父親譲り)を好みました。
現代でいうインスタ映えやコスプレ写真といっても十分通じるレベルです。

一番右の写真はいただけませんね。海岸でう〇こしている写真です。
ここでは自粛しますが笑顔のカットや固形物が映ったカットもありました。
友達にいたら最高に楽しそうなクソ野郎ですが、SNSが発達した現代なら炎上して一発でアウトです。

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ロートレックが愛した「日本」

日本人が彼に親しみを覚える理由の一つに、彼が日本を好きだったということもあります。
1867年、日本が初参加したパリ万博で陶磁器が評価され、その梱包用紙だった浮世絵にマネやモネ、ゴッホやゴーギャンなどパリの芸術家が注目しましたが、子供の頃から北斎漫画を読んでいたロートレックもその一人でした。

ロートレックの時代、日本は侍だらけの幕末から戊辰戦争ののち明治時代が始まり東大や上野動物園が作られ日清戦争が始まった波乱の時代でした。

コスプレおじさんロートレックは、浮世絵から絵の技術以外にも影響を受けたようです。
例えば左の2枚の写真は冠と着物に扇子と日本人形を携えたロートレック。
完全に日本を馬鹿に…いやリスペクトしてくれていますね。

一番右の鳥居にも似たマークは浮世絵の印を参考に、「丸」にトゥールーズの「T」とハイフン「-」とロートレックの「L」を組み合わせて作った彼オリジナルのサインです。

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ロートレックが愛した「絵」

酒と女をガソリンに浮世絵のテクニックも取り入れつつ、ロートレックは精力的に絵を描き続けました。
彼は絵画だけでなく商業デザインとして下に見られていたポスター制作にも真剣に取り組みます。また雇ったモデルを描くのが普通だったこの時代に、下層階級といわれたダンサーや売春婦をメインに描きました。
その差別なき愛情深い眼差しは、名門貴族に生まれながらも疎まれ差別や偏見を受けたロートレックならではなのかもしれません。

明るくカラフルで、かつ浮世絵にヒントを得た平塗りと大胆な構図が特長のロートレックの作品は今も数多く残され、そして商業デザインとして下に見られていたポスターは彼の手により芸術の域まで昇華されました。

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ロートレック「最後の言葉」

そして愛した酒と女の二段攻撃でボロボロになったロートレックは、母親の自宅であるマルロメ城で両親に看取られながら最後の時を迎えます。
ずっと愛し続けてくれた母親に感謝を伝えた後、最後まで認めてくれなかった父親へロートレックは言葉を放ちます。

「馬鹿な年寄りめ!」

これが彼の最後の言葉でした。
言葉だけ見ると、父親への怒りと恨みを込めた冷酷な言葉に聞こえますが、彼の生き様を知った後だとどうもそういう感じではない気がするのです。

もしかしたら、(俺のこと認めなかったけど周りからは結構評価されてたんだぜ)と言わんばかりに皮肉な笑顔を浮かべつつ言ったんじゃないか?
言ったあとニヤッと笑い、愛情をこめたウインクでもしたんじゃないか?
そう思いたくなるのです。

たくさんの苦労をしながらもお調子者で周囲から愛された男。
人と酒と女と絵を愛し、最後は酒と女にやられた自業自得な男。
さらばモンマルトルの自由と放埒の日々よ。
享年36歳でした。

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