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第三話 「神童」

 幸男さんが、ハッピーターンの粉を口につけながら、ボリボリと齧り、そしてゆっくりとお茶を飲む。その姿はさきほどの痴呆老人とは思えぬほど、はっきりとしていた。私の姿を見たショックから、ああなったのだろうか。泣いたら、目が覚めたのだろうか。先とはまったく別人のようである。幸男さんが遠い目をして言った。
「昌ちゃんは、桶の中の、ほんの小さな濁りさえも見抜くほど、まさに天才的な味覚の持ち主でした」
 城戸幸男。昭和の時代から、この城戸酒造を守り続けてきた人であるらしい。今は、息子夫婦が、この会社の経営を仕切っているらしく、数年前に幸男さんは引退し、主に、酒蔵を見学する観光客などの相手をしているそうだ。 
 そして今、客間のテーブルに座り、私と雄太は、出されたお茶を飲みながら、中庭にある、例の銅像を食い入るように見ている。その銅像は、昌平少年の上半身だけのもので、その裏には小さな文字で、『昭和28年、寄贈』と彫られている。
その少年の顔、たしかに、父に似ていなくもない。
「当時、蔵の桶のすべての味を、昌ちゃんはすべて覚えてしまっておりました。桶に何か異変があれば、すぐに蔵人たちに教えました」
「・・・」
これは本当に父の子供時代の話だろうか。
「当時、蔵で一番恐れていたのは、なにかわかりますか?」
幸男が尋ねる。雄太が、目を細めて答えた。
「酒の腐造ですね」
「その通り」
雄太のドヤ顔が、私を見た。私に悔しさの一ミリもなかった。しかし、さすがに、日本酒の会にいるだけはある。
「酒の腐敗は、あってはならないことでした。当時はまだ木の桶で造りをしておりましたから、そういったこともありました。そして、腐造を出した蔵は、杜氏はクビを切られ、また借金を抱えて潰れる蔵もあったと聞きます」
 日本酒のことなど、私は知る由もなかった。飲む酒はもっぱらがビールで、日本酒は甘ったるいだけの酒で、翌日も残るし、あまり好きはなかった。が、こうして蔵へ来てみると、なんだか飲んでみたくなるから不思議だ。
「そういった意味では、昌ちゃんはまさに、この蔵に現れた、ウイスキーキャットのような存在でした」
私と雄太は首を傾げた。
「ウイスキーキャット?」
「イギリスの、主にスコットランド地方のウイスキーやビールの製造元で、害虫駆除を目的として、飼われている猫のことです」
雄太がしゃしゃり出た。
「聞いたことあります」
「ウイスキーの原料である大麦は、ネズミや鳥の餌となるため、製造元では、常にこういった害獣の駆除が大きな課題になります。駆除剤などは大麦の香りを損ない製品の品質に影響を与えるため用いることができず、古くから猫が害獣駆除のために飼育されてきたのです。これらの猫はウイスキーキャットと呼ばれ、実用の必要性以上にマスコットとして、大切にされてきた。言ってみれば、昌ちゃんも、そういった、この蔵のウイスキーキャット、いや、天使、いや、守り神のような存在だったかもしれません」
「・・・」
私は、唖然としてその話を聞いている。それにしても解せないのは、父は、我が家では笑えるほどの味音痴だったからだ。腕によりをかけて作った料理のほとんどが滅茶苦茶で、どうしたら、こんなミステリアスな味になるのか理解に苦しむほどだったから。まず、カレーがまずいのだ。お好み焼きがまずいのだ。ルーを入れるだけ、粉を焼くだけの料理が、どうしてこんな味になるのか、理解に苦しむほど、父の舌は、おかしかったのだ。
「でも、八歳の子供ですよね」
雄太が、率直な疑問を、投げた。
「日本酒なんて飲んだら、下手したら、病気しちゃいますよね、てか、死んじゃいますよね、子供だし」
「ギフテッド」
幸男さんが、そう小さくつぶやく。
「?」
私たちは首を傾げた。
「話は、昭和25年の秋にさかのぼります。終戦からだいぶ経つとはいえ、まだまだ日本は豊かではありませんから、どこも貧しいものでした。この辺り一帯も、小さな村でしたので、復興にとりわけ時間がかかりました」
「戦争で、たくさんの蔵人たちが、亡くなったとか」
赤いモヒカンが言うセリフではない。
「はい、私たち、城戸酒造も、例外ではありません、当時の専務だった私の父の康太も、出征し戦死しております。なので、私は父親を知らずに育ちました」
言葉もない。雄太が悲しそうに私を見た。
「ちょうど、私が、10歳になろうとした頃でしょうか。向かいに、小さな一軒屋がありまして、そこに、やはり戦争で家をなくし、転がるように引っ越してきた一家がおりました。それが、あなたのお父さまのご家族。そう、沖田家です」
「え?」
幸男さんが、ニコリと笑って、言った。
「そうだ。まずは、お飲みになりませんか?、『神童』を」
「・・・いいんですか?」
私は思わず、雄太を見た。雄太が悔しそうな顔で私を見た。
「はい、ぜひ」


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