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連載小説『意外と知らない父のこと』

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第八話 「父とお酒を」

帰りの新幹線に、私は一人でいた。新神戸の駅で雄太とは別れた。雄太は改札で、私に握手を差し出し、私が添えるだけの握手で返すと、なぜかハグしようとしてきたので、やんわりと逃げた。いつまでも手を振る雄太をあとにして、私は、エスカレーターを駆け上がった。  今、私の手元には、一本の日本酒がある。あの幸男さんに出してもらった、古い『神童』である。木の香りのする、あの酒だ。一升瓶をリュックに突っ込んで、持ち帰ろうしたが、その重さでグラつき、リュックから落ちたりしないか心配で、私は仕方なく

第七話 「彼岸花」

後日、両家はもめた。それもそのはず、大事な桶一つが、売りものにならなくなったのだ。城戸酒造の損害は思ったよりも大きい。沖田家は、深く謝罪した。そして、その日から、新之助は更に荒れた。沖田の子供たちも、それ以来、あまり家に近づこうとはしなくなった。たまに沖田の家から、新之助のものと思われる怒号が聞こえてきて、幸男はそれを聞くのが、たまらなく嫌だった。  ある日、幸男が学校から帰ると、母の睦美が、神妙な顔で玄関で待っていた。促されるように、居間へ入ると、そこに、あの昌平が立ってい

第六話 「幸男」

第五話 「城戸酒造の話 その2」

 今、私は手ぬぐいで目隠しをされたまま、五種類の日本酒が入った小さなグラスを、順番に味わっている。あらかじめ味わった酒の味を舌で覚え、それを目隠しをしてランダムに口に含み、どの味かを、それぞれ当てていく。いわゆる利き酒である。が、初心者の私にとってはゲームのようなものである。 「最初が、宮城のもので、次が、京都、あと、三番目が、埼玉のもの?かな、それで、灘のやつがあって、長野のがあって・・最後に神童でしょうか?」  そう言って、私は手ぬぐいを取った。横にいた雄太が、唖然として

第四話 「城戸酒造の話」

 透き通った水のような、淡い色をした酒を前にして、私はかしこまっている。隣では雄太が、物欲しそうな目で、その酒を見つめていた。中庭に生えている銀杏の葉が風に揺れて、縁側から今にも入ってきそうだ。そのカサカサとした、心地よい音を聞きながら、私は、グラスを持ち上げた。 「いただきます」 『神童』を一口いただく。その透明感のある味の奥底に、ほのかな、独特の香りに気づいた。その苦みが、どこか懐かしいような、そんな気がした、これはなんだろう、そうだ、木の味だ。木の味がする。 「いかがで

第三話 「神童」

 幸男さんが、ハッピーターンの粉を口につけながら、ボリボリと齧り、そしてゆっくりとお茶を飲む。その姿はさきほどの痴呆老人とは思えぬほど、はっきりとしていた。私の姿を見たショックから、ああなったのだろうか。泣いたら、目が覚めたのだろうか。先とはまったく別人のようである。幸男さんが遠い目をして言った。 「昌ちゃんは、桶の中の、ほんの小さな濁りさえも見抜くほど、まさに天才的な味覚の持ち主でした」  城戸幸男。昭和の時代から、この城戸酒造を守り続けてきた人であるらしい。今は、息子夫婦

第二話 「雄太」

 新神戸駅の改札を出ると、そこに、赤いモヒカンでボロボロのカーキ色した、軍隊が着そうな上着を羽織った、見るからにやばそうな男が、黒いサングラスをして立っている。これから政治家を射殺しにいく、ロバート・デ・ニーロのようである。神戸のデ・ニーロは、私を見るなり、満面の笑顔で、嬉しそうに手を振った。 「なおちゃん!、なおちゃん!」 男は、サングラスを取ると、わかれとばかりに、自分を指さしている。 「えっと・・もしかして・・雄太くん?」 「そうそう」  私は、雄太の前までくると、軽い

第一話 「飛猿さん」

 父のことを、少し。  どちらかといえば穏やかな性格で、酒は一滴も飲まず、争いごとを嫌い、叱られたことはあっても、殴られた記憶は一度もなく、口数は極端に少なく、舌がどうにかなってしまっているのではないかと疑うほどの味音痴で、そして、毎朝、5時には必ず目を覚ますと、庭先で、見たこともない、不思議な体操をしてから、朝飯を食べる。  朝飯はいつもトーストで、そこに、父がどこからか仕入れてくる、ラベルのない瓶の蜂蜜をたっぷりとかけ、そして、ほんの少しの野菜や果物と一緒に食べる。父の