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第五話 「城戸酒造の話 その2」


 今、私は手ぬぐいで目隠しをされたまま、五種類の日本酒が入った小さなグラスを、順番に味わっている。あらかじめ味わった酒の味を舌で覚え、それを目隠しをしてランダムに口に含み、どの味かを、それぞれ当てていく。いわゆる利き酒である。が、初心者の私にとってはゲームのようなものである。
「最初が、宮城のもので、次が、京都、あと、三番目が、埼玉のもの?かな、それで、灘のやつがあって、長野のがあって・・最後に神童でしょうか?」
 そう言って、私は手ぬぐいを取った。横にいた雄太が、唖然として口をあんぐり開けている。
 目の前に、五本の日本酒の一升瓶が並んでいる。それらはすべて、私の言った通りに、整列するように並んでいた。
「さすが、昌ちゃんの娘さんだ」
 貞治さんと綾子さんが、感心するように、手を叩く。
 知らなかった。私にこんな特技があったとは。たしかに、昔から味にはうるさいところがあった。マックはグラコロだし。塩とか、やたら高いの買いたがるし。ほうじ茶は高いけど一保堂だし。そもそも父の味覚がおかしかったわけでなく、私が敏感だったのか。遺伝だろうか。
「あれ、ちょっと待ってください。たしか、神童って、ちゃんと今のラベルありますよね」
 並んだ酒瓶を一本一本、物色している雄太が、気づいたように言った。たしかに、神童の酒瓶に貼ってあるラベルは、かなり昔のデザインであろう。そして、煤けたように、古くかすんでいる。
「実は今日、特別に開けました」
綾子が笑顔でそう言った。
「まさか・・・」
「ええ。当時のものです」
「嘘でしょ?!」
 雄太が、思わず大きな声で叫んだ。
「最後の一本です」
 私は言葉もなかった。
「飲みてぇ・・・」
 雄太が、本当に悔しそうに、つぶやく。
綾子が、私に、小さく尋ねた。
「でも、尚子さん、これ、他の酒に比べて、どうですか?」
「・・・えっと」
私の困ったような表情に気づき、貞治さんが笑う。見透かされたのか、私は、仕方なく、白状した。
「・・・木の味が」
「やはり、おわかりになりましたか」
 雄太が、隣で、神童の匂を嗅ぎ、そして首をかしげている。
「はい、どことなく。・・でも、木の匂にしては、不自然といいますか・・・」
 それを聞いた幸男さんが、思わず声をあげて笑いだす。貞治と綾子も一緒に笑う。雄太は何のことだかさっぱりわからないような顔をしている。貞治が、参ったとばかりに、話を続けた。
「現在の蔵の桶は、ほとんどが、琺瑯でできていますが、昔は木の桶が当たり前でした。昔の酒は、ほとんどが桶の匂いが染みつき、いわゆる木香が残ります。今のお酒は、みんな水のような透明感がありますが、昔は、もう少し茶色く濁っていました。今のよくある日本酒の味にたどり着くまで、たくさんの酒造りの男たちが、開発してきた歴史があります。当時、うちの蔵も、桶はすでに琺瑯でやっておりました。が、変えたはいいが、まだお客が琺瑯の酒の味に慣れていませんでした。それで、蔵は、おかしな話ですが・・」
「もしかして・・・木の匂いを?」
「はい、出来上がったものに、木香を人工的につけたのです。馬鹿みたいでしょう?、でもそうしないと、ほんとに、売れなかったんです、庶民には、慣れ親しんだ味というのがありますから」
「はあ」
 雄太が、思わずため息をついた。
「ところが、それを反対したのは、造った本人である、杜氏や蔵人たちでした。どうしてわざわざ、せっかく造った酒をまずくするのか?、当然です」
「まあ、そうっすね」
 雄太が、頷く。
「うちとしては、新しい日本酒を造りたかった。戦争も終わり、時代は変わったのです。しかし、昔の価値観にがんじがらめになったとき、昌平が、酒造りの男たちの思いを、純粋な言葉で、代弁したのです。
「木の味がする」
「はい、そうです。そして、昌平少年もその不自然さに気づいたはず。悪い意味できちんと、それを言葉にしたのです。けれど、その微妙な匂いは、酒の味をわかるものではないと、気づかないほどの微々たるものでした。その些細な木香に気づいた八歳の少年を、私たちは、不思議に思いました。そして、当時の城戸酒造で、杜氏をしていた、喜三郎という男が、あろうことか、昌平少年の目に、このように、手ぬぐいを巻かせて・・・」
「利き酒させたんですか!」
 雄太が笑う。
「まさか、八歳の少年に?」
「そうです、その時、昌平が味わったものが・・・ここに並んだ五本です」
 目の前に並ぶ五本の酒瓶を見て、幸男さんが私ににっこりとほほ笑んだ。
「・・・」
「結果は、もうおわかりかと思います、尚子さんが見せてくれました」
「・・・」
私は言葉もなかった。時を超えて、父と同じ場所で、同じ利き酒をされ、そして、すべて父と同じ答えを導き出したのだ。
「周りの大人たちは確信しました。この子の味覚は、天性のものだと。ここまで酒を利くことができるのは、酒に精通した、蔵の大人でさえ、わずか数人だったと思います」
 雄太が、次々に、酒のグラスを匂っては、首をかしげている。そして、いよいよ幸男さんが、自らの口で、話はじめた。
「しかし、昌ちゃんがすごかったのは、その後でした。醪のことや、醸造の温度の差など、酒米の磨き方など、桶の酒を一口含めば、すべてわかってしまうのです。昌平は、自分の好みに合う味を、自分の舌で、蔵の大人たちに探させたのです。それはまるで、自分が飲みたいジュースを作らせるみたいに。そうして、この蔵に『神童』は生まれました。いってみれば、『神童』は、昌平の舌によって生み出された酒となりました。そして、また、『神童』は、木香がないと飲もうとしなかった地元の人たちの価値観を根底から変えてしまいます。城戸酒造に、革命が起きたのです。そしてそれは、全国にいる日本酒を愛する人たちを虜にしていきます。神戸に新しい酒がある。その噂はすぐに広まり、蔵は大きくなっていきました。『神童』は、それだけ、新しくて、インパクトのある酒だったのです。果たしてこの『神童』をつくったのは誰なのか。ですが、それは、城戸の人間には、無論、言えませんでした。まさか未成年者はおろか、八歳の子供に酒を飲ませているのですから、この秘密は、門外不出となりました。絶対に口外してはいけない。私もそう言われてきました。それからも昌ちゃんは、この蔵の名テイスターとしての地位を築いていきます。わからないことがあったら、昌平の舌に聞け。私も大人たちにそう言われて、育ってきましたから」
「・・・」
 なんだか、にわかに信じられないような話だ。そして、幸男さんが少し俯いたように、話を続けた。
「ですが、その天才少年を、忌み嫌っている人間が一人おりました」
「え?」
「その人間は、ある日、昌平を蔵から追い出そうとして、酒に毒を盛ります」
「毒?」
「気持ち悪い!誰がそんなことを」
 私と雄太が、思わず顔を見合わせた。幸男さんが、苦笑いして、答える。
「この城戸酒造を、ゆくゆくは継ぐはずだった、同じ年の少年」
「・・・え?」
 幸男さんが、私をまっすぐに見据えて、言った。
「私です」
「・・・」
「私が、昌ちゃんに毒を盛ったのです」
「!」
「私が、昌ちゃんから、味覚を奪ったのです」
 雄太が、とうとう我慢できずに、目の前の酒を一口飲んだ。私ものんだ。外のおしゃれなカフェから、若者たちの笑い声が聞こえていた。


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