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第七話 「彼岸花」

後日、両家はもめた。それもそのはず、大事な桶一つが、売りものにならなくなったのだ。城戸酒造の損害は思ったよりも大きい。沖田家は、深く謝罪した。そして、その日から、新之助は更に荒れた。沖田の子供たちも、それ以来、あまり家に近づこうとはしなくなった。たまに沖田の家から、新之助のものと思われる怒号が聞こえてきて、幸男はそれを聞くのが、たまらなく嫌だった。
 ある日、幸男が学校から帰ると、母の睦美が、神妙な顔で玄関で待っていた。促されるように、居間へ入ると、そこに、あの昌平が立っている。何事かと、幸男は睦美の顔を見た。
「今日から、この家さ、奉公にくることになったけえ、幸男と部屋さ、わけてくんろ」
「なしてじゃ」
「しかたねえけ、蔵の宿舎は、どこもいっぱいじゃで、おめえさんの部屋しかねえのすけ」
「いやじゃ」
幸男は叫んだ。沖田の家の子供と一緒の部屋で過ごすなんて、考えただけでも、ゾッとする。
「姉ちゃんは?」
幸男が聞くと、睦美が、もう決まっている様子で話す。
「香も、いつまでも幸男と一緒じゃ、可哀そうじゃろ」
「・・・」
「そういうことじゃけ、仲良くしてくんさい」
それだけ言い残して、睦美は消えた。部屋には、幸男と昌平だけが、残された。
「おい」
幸男が、昌平に不満をぶつけるようにして、言った。幸男は何も言わず、ただじっと幸男を見ている。
「口がきけんのか」
幸男が馬鹿にしたように言った。
「きけるわ」
昌平が、言い返した。
「いね」
「なにがじゃ」
「うちのへやじゃ」
「・・・」
昌平が、言われた通り、部屋を出ていこうとするが、幸男がその腕をつかんだ。
「うそじゃ」
告げ口されれば、睦美に怒られると、幸男は咄嗟に思った。
「・・・」
「じゃ、どこさ、いればええんか?」
「そのへん、立っとけや」
「いやじゃ」
そう言って、ムッとした昌平が、幸男に見せつけるように、床にドスンと座りこむと、幸男をにらんだ。
「うちの部屋じゃ、そう言うとったじょ」
昌平がそう主張すると、幸男はいてもたってもいられなくなる。
「でゃ、おらが、いねくなる」
それだけ言って、幸男は部屋から小走りで去った。そして誰もいない城戸家の裏の庭へ出ると、そこで一人、仕方なく時間をつぶした。幸男は、不思議と昌平とは遊びたくなかった。長い一日だった。日が暮れて帰ると、家族の夕飯の席にも、なぜか昌平がいた。
「今日から、一緒にたべるけん」
睦美が言った。気が付けば、睦美の家事の手伝いに、昌平が立ち働いていた。もう逃げることはできなかった。
 その夜、部屋で、幸男と昌平は、布団を並べて横になった。これから先も、ずっと二人で眠ることになるのだろうか。幸男は先が思いやられた。
夜中、寝静まった頃に、幸男は、ふと泣き声で目を覚ました。昌平の泣き声であった。布団にくるまり、おいおいと昌平が泣いていた。目を覚ました幸男に気づくと、必死でそれを隠そうとしていた。幸男は、いたたまれなくなった。
「今日は、部屋、やる」
幸男はそれだけいうと、枕だけもって、部屋を出た。
襖をしめた途端、溜まっていたものを吐き出すように、昌平がわんわんと大きな声で泣きだした。

 幸男が小学校に通っている間、昌平は、すでに蔵で仕事をしていた。仕事といっても小学生であるから、蔵人のように、力仕事はできない。子供でもできる小さな作業を、ひたすら朝から晩まで続けるのである。遊びたい盛りの子供にとってみれば、それはまるで地獄である。それでも、昌平は文句ひとつ言わず、黙々と奉公を続けた。たまに向かいの沖田家から、母のきくがやってきては、昌平の様子を見守った。新之助は来なかった。昌平はきくが来るたびに、まるで子供のように甘え、そして帰っていくと、再び険しい顔になった。
「可哀そうにねえ、まだ子供だけんね」
香が気の毒そうに幸男に言った。が、幸男に同情する気持ちはあまりなかった。むしろ酒造りの仕事をしている昌平を、少し羨ましくも思った。憧れていた蔵の仕事を、すでに同じような年の子がしている姿は、幸男にしてみれば、あまり面白くはなかった。
とある夜、布団で寝ている時、ふと、幸男は隣で寝ている昌平に尋ねた。
「おい、おめえ、仕事つらくねえのか」
しばしの沈黙のあと、真っ暗闇の中に、昌平の声がした。
「つらくねえ」
「なしてだ」
「酒が好きだ」
それを聞いて、幸男は驚き、黙った。昌平が話を続けた。
「酒の匂いが、好きだ、蔵に入ったとき、背筋さ震えだ」
「溺れたこと、覚えてとるか?」
「覚えとる」
「怖くなかったか?」
「怖かった・・怖かったが・・でも、すぐにあったけえ気持ちになった。あんなあったけえ気持ちになったの、はじめでだ、わしゃ、ここから生まれてきたような、不思議な気持ちだったな」
幸男はなぜか、突然に、不機嫌になった。
「馬鹿じゃねえのか」
「馬鹿じゃねえよ」
「子供が酒造れるわけねえ」
「なして?」
「子供じゃもん」
「でも、おら、酒好きだ」
幸男は、それを聞いて、布団をかぶった。それ以上話すことはなかった。それに、幸男が何より嫌だったのは、自分と似たような気持ちを、この少年もまた持っていることだった。それと同時に、昌平が、誰よりも自分に似ていると、幸男は思った。
「もういいけ、はよ、ねれ」
布団の中で、昌平の笑い声が聞こえた。
「言われんでも、ねるわ」
布団にくるまっていた昌平の脚が、隣の布団の幸男の脚を小突いた。
「いいな、学校」
昌平が言った。
「勉強、教えてけろや」
「いやじゃ」
それきり、二人は、話をしなかった。しばらくすると、いつの間にか、昌平の疲れたような寝息が聞こえてきて、幸男はそれを真似してみせた。

 庭の裏に、蔵人が来るようになる頃になると、きまって咲き誇る赤い花がある。幸男はその花が好きだった。この花が咲けば、また今年も蔵に灯りが灯るからだ。だが、姉の香は言った。
「この花の根っこさ、口にすんなや、毒だで、口にしちまうと、たいへんなことさ、おこるで」
 怖がる幸男を面白がるように、香は、笑いながらそう言った。事実、この赤い花の根には、毒がある。香は、それを昔に睦美から教えてもらった。幸男は信じられない気持ちだった。こんなにも赤くて綺麗な花が、その見えないところに、毒をもっていることに、えも言えぬ恐怖を感じた。それから幸男は、この花にあまり近寄ることはなかった。あれだけ好きだったこの赤い花を、触ろうともしなくなった。
 それから、あっという間に季節は流れ、春が来て、夏が過ぎ、そしてまた秋が来た。今年もまた、裏庭にあの赤い花が咲き誇ると、いよいよ今年の酒造りが始まろうとしていた。あれから、昌平はすっかり、奉公の子として、城戸家に仕えていた。相変わらず幸男と部屋は同じであった。幸男もいつしか昌平と一緒にいるのが、自然となっていった。
 ある夜、部屋で寝入ろうとしていると、昌平がニヤニヤして、部屋に入ってきた。
「どしたず、そげな顔さして」
昌平が、上着の内ポケットに、小さな升をそっと取り出した。中には、酒が入っていた。
「のむべ」
「のむって!、おめ、どうしたんだ、これ、酒でねえか」
「ああ、台所さあるの、見つけた。おめも、のみたかろ」
「馬鹿言うな、まだ子じゃけ」
「関係あらへん、おら、のんどる」
「・・・は?」
「おら、朝から晩まで、のまされとるけ」
「・・・どういうこっちゃ」
「わし、あじみるんじゃ」
「あじみる?」
「酒がうまいか、あじみる係じゃ」
「・・・そんな係あるけ」
「喜三郎さんが、言ったんじゃ、うちは、神童いうんじゃけ」
「神童?」
「そうじゃ。どういう意味じゃ?」
「知らんのか」
「知らん、教えてくれ」
「うちも知らん」
「よくわからんが、のもう、のみたかろ」
「・・・」
昌平が、笑って、酒をよこすので、幸男は、仕方なく、受け取った。襖をそっとわずかに開けて、誰もいないことを確認すると、幸男は一口、升の酒を舐めた。幸男は、苦いような顔をして、
「舌がピリピリしとる」
と笑った。昌平も笑った。
「なあ、幸男、俺らは大人になったら、酒さ造るべ」
「え?」
「わしが、杜氏で、幸男が社長じゃ」
「・・・」
そして、昌平が、その酒を利いた。幸男はそれが信じられなかった。大人のように、昌平が酒を飲むのだ。
「大丈夫か・・そげな量、のんで・・」
「何が?、足りないくらいじゃ」
幸男は、酒を嬉しそうに飲む昌平の姿を見て、何か大きな劣等感のようなものを感じていた。昌平は、普通の子供ではないと、幸男は子供ながらに直感していた。
 ある日、幸男が小学校から帰ると、台所のあたりで、大人たちが、何やら集まっているようだった。何事かと幸男が覗きに行くと、そこには、家族と昌平の姿があった。そこには珍しく喜三郎や、蔵人たちもいるようだった。何か秘密の会合でもしているのか、皆、黙ったままで、立っている。その緊張から、幸男は、迂闊に声をかけられず、廊下からじっとその様子を覗いていた。昌平が、何やら手ぬぐいで目隠しをされているらしい。そして、昌平の目の前には、何本かの一升瓶と、そして、凸凹の銀のやかんが並んでいた。それを、少しづつ、昌平が口にしては、傍らのバケツに、吐き出すのだ。
見てすぐにわかった。明らかに、昌平は酒を飲んでいた。そして酒を利いていた。一体、これはなんのテストだろうか。
「どうじゃろか?」
喜三郎が、昌平に、酒を尋ねた。
「3号が、ちょうどええ」
昌平がそう言うと、大人たちが、昌平の飲んだものを口に含み、そして首を傾げている。
やかんには、小さなラベルが貼られていて、そこに桶の番号が振られていた。3号とは、どうやら、その桶の番号であるらしい。それはなんとなく幸男にもわかった。
「杜氏、3号は、精米が5割、この貧しか時代に、米の半分を磨き、捨てろとおっしゃるのですか!」
蔵人の一人が、昌平を快く思っていないのか、反発した。
「ええで、どうせ3号だけや」
「・・・しかし」
「3号は、昌平の酒にしようやないか」
そう言って、喜三郎が、昌平の目隠しを取ると、優しく笑いかけた。
それを聞いた昌平が、本当に嬉しそうに、こっこりと笑った。まるで、欲しかったおもちゃを買ってもらった子供のようだ。反発する蔵人たちも、仕方ないとばかりに、昌平の頭を撫でた。
「昌平は、この蔵の守り神じゃな」
喜三郎が、そう言うと、蔵人たちが笑った。
その様子を見た幸男は、いてもたってもいられなくなった。あの喜三郎や蔵人たちの喜んだ顔、まるで自分の子供や孫を見るような、優しい眼差し。それはどれも、幸男が欲しくて欲しくてたまらなかったものだった。幸男は急に自分の未来に恐怖を感じた。これからの自分のすべてを、昌平に根こそぎ取られてしまうような、激しい嫉妬と焦りを感じた。ふと、脳裏に亡き父の言葉がよぎった。

「そうだな、幸男がいつか、その火さ、ともしてくれ」

幸男は、逃げた。息を切らせて逃げた。走って逃げた先は、いつもきまって、あの裏庭であった。逃げた幸男は、そこで、赤い花が咲き誇っているのを見た。風に揺れ、幸男を誘うように、妖艶に右に左に、踊っているようにも見えた。まるで催眠にもでかかったように、幸男はその赤い花をじっと見つめた。美しさのその裏にある毒を、幸男は思った。幸男は、突然、その赤い花の埋まっている土を、素手のまま堀り起こし始めた。手を真っ黒にして、幸男は、必死に掘り続けた。

その日、幸男は、珍しく学校を休んだ。
風邪だと、幸男は言った。睦美は、そこまで幸男の体調が悪いとは思えなかったが、布団の横に座り、看病した。学校へ休むように連絡をすると、枕元に白湯や氷を置き、そして去り際に、電気を消した。
「安静にしよるんじゃよ」
「うん」
幸男は小さく返事した。そして、睦美が部屋を出て、しばらくその足音が遠ざかっていくのを確認すると、幸男は布団から起き上がり、ひっそりと電気をつけた。音をたてずに、部屋を出ると、辺りを見回した。家の中は誰もいなかった。みな、仕事に行ってしまったのだろうか。静まり返った家の中で、幸男はそのまま、廊下を歩いた。そして、誰もいない台所に入ると、そこから、すり鉢と棒を探しだした。幸男は電気もつけず、窓から入ってくる外光だけを頼りに、それを盗み出すと、また廊下へ出て、見回しながら、部屋へ戻った。机の中に隠しておいた、いつくかの根。赤い花の根を、すり潰しはじめた。物音がしないように、布団の中にくるまって、ひたすらに、すり潰した。
 
いつもの夜だった。家族で夕飯を食べ、風呂に入り、早めに布団に入り、明日のため眠っている昌平に、幸男は隣の布団から声をかけた。
「なあ、なあ」
目をこすりながら、昌平が眠そうな目で、起き上がる。
「なんした?」
「こないだ、みたんよ・・昌平が酒きいてんの」
「・・・」
「台所にみんなおった」
「・・・わし、あじみる係じゃけえ」
「なあ、それ、おらにも教えてくれ」
「え?」
「あじみるの、おしえてくれや」
「ええけど、じゃあ、今度な」
「今じゃ」
「今?」
「今から、台所でやってけろ、酒あるんじゃろ」
「・・・でも」
「頼むて」
「・・・」
昌平も、幸男にここまで頼まれると、無碍にはできない。幸男に言われるがまま、昌平は起き上がる。二人は部屋を出て、こっそりと薄暗い廊下を抜け、台所へ向かった。
「見つかったら、怒られるちがうのか?」
心配する昌平をよそに、幸男は先を急いだ。そして、誰もいない台所へ忍びこんだ。冷蔵庫に酒が眠っているのを、幸男も昌平も知っていた。二人は目と目で合図すると、大きな冷蔵庫を、二人で開けた。そこから、一升瓶を3本ほど、取り出し、作業台の上に置いた。
「で、どうすんの?」
幸男が尋ねた。
「まず、手ぬぐい巻くのさ」
昌平が、その辺に置いてあった、布巾を手にした。
「なして、目をかくすのじゃ」
「どの酒がどれか、当てるんじゃ、こうしたほうが、よくあじがわかるぢょって」
「酒のあてっこじゃな」
「そうじゃ、そうじゃ」
「やってみてけろや」
「おお」
昌平は、布巾で、自分の目を隠した。
「酒さ、3つ、升で用意してけろ」
「おお」
小さな升を棚から取り出すと、そこに酒を注いだ。
「できたか?」
「できた」
「じゃあ、飲ませてけろ」
幸男は、まず一つ目の酒を飲ませた。
「あらばしりじゃ」
酒の名前である。瓶にそう書いた紙が貼られている。
「おお、あたりじゃ」
「次じゃ」
幸男は2つ目の酒を昌平に差し出した。
「目黒じゃ」
「すごい、またあたりじゃ」
「簡単じゃ、こんなもん」
昌平が、自慢気に答えた。それを聞いた幸男が、最後の酒を用意する。
「次が最後じゃ」
「おお、こい」
幸男は、最後の酒を注ぐと、ふと寝間着の下に隠しもってきた包みから、何か粉のようなものを取り出した。そして、それをこっそりと入れ、目隠しをした昌平に、差し出した。
「のめ」
昌平が言われるがままに受け取った。そして最後の酒を口にした。その様子を、幸男はじっと見ていた。まるで何かの実験のように、冷徹な目で昌平を見た。気がつけば、幸男の額に、脂汗がじっとりと浮かんでいた。
「簡単じゃ、うちの、城戸の酒じゃ」
といったところで、昌平がすぐに異変に気付いた。
「でも・・なんか、混ぜとる」
「・・・」
「なんじゃ?」
「・・・」
といったところで、昌平の手が震えだす。そして、慌てたように、ぺっぺと、口から唾液を吐きはじめた。
「なんじゃ!、幸男、なんかいれたんか?!」
「・・・」
しばらくすると、昌平が、小刻みに震え出した。
「舌が、痛とうよ・・痛とうて!たまらん!」
昌平が、身もだえている。それを見た幸男が、ようやく事の重大さに気づいたのか、目を大きく見開いた。
「水くれ、はよ」
幸男が慌てて水を汲もうとする。
「ごめん、ごめん!」
「目隠しとって」
幸男が泣きそうな顔で昌平の目隠しを、震える手でとった。その眼が真っ赤に晴れ上がり、幸男を見た。怖くなった幸男は、驚き、その手を放すように、後ろへ後ずさりした。その瞬間、作業台に体をぶつけ、酒瓶をなぎ倒した。大きなガラス瓶の割れる音が、家中に響いた。怖くなった幸男が、大きな声で叫んだ。
「助けて、誰か!」
逆に冷静だったのは、昌平だ。取り乱す幸男を見ると、小さく震えた声で幸男に言った。
「幸男」
「・・・」
「おめえか」
「・・・」
「おめえか、やったの」
「・・・」
それを聞いた瞬間、幸男は、その毒の入った酒を発作的に口にした。まるで、自殺でもするように、その酒を、一気に飲み干した。幸男は、そのまま卒倒して、台所の床に倒れこんだ。激しく痙攣している幸男に、昌平が慌てて身体をさするが、やがて、自らもその場に倒れた。台所で、子が二人、中毒で倒れた。その床を、こぼれた酒が、まるで、二人の身体から流れる透明な血のように、ゆっくりと広がっていった。


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