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私たちはもう「知っている」。 だから、準備をはじめよう。


「実家の喫茶店が、店じまいすることになった。」

お世話になっている知り合いの方の、Facebook投稿。重たい違和感が腹の底からせり上がってきて、心臓が圧迫された。コロナは人の命だけでなく、希望まで奪ってしまう。

喫茶店を切り盛りしていたお母様への想い。いつもの味を惜しむ声や、懐かしい記憶がたくさん綴られたコメント欄。

投稿をひと通り読んでから、「悲しいね」というリアクションボタンをそっと押すことしかできなくて、腹に抱いた違和感とそのリアクションの言葉があまりにも乖離していて、なんとも情けない気持ちになった。

今回のコロナ禍で、変わりゆく状況に対して創意工夫し適応する力強いストーリーは数多く生まれていて、勇気をもらうばかりだ。

ただ、そうしたストーリーと地続きに、ドラマティックでもなんでもない生々しい「絶望」が人知れず存在することを、私は棚上げできないでいる。

希望、希望。

希望なんて、あるのだろうか。

医療崩壊と経済崩壊のハザマで、正義がぶつかり合っているのを見た。苦しんで苦しんで、こんなはずじゃなかったと店をたたむことになった人たち、負債が増えつづけて不安と戦うエネルギーを失いかけている人たちがいた。

店員さんに不満や文句をぶつけたり、我先にと割り入って買い占めをしたり、医療関係者を差別する人間の業も見た。「生かす価値のない人間を助ける義理はない」と、長年務めた医療職を降りた方の声を聞いた。

愛する人を失った人がいた。

私たち、いや少なくとも私は、期せずして「非日常」に足を踏み入れたと感じていた。だって、私を取り巻く環境が、出来事が、声が、今までに知り得ないものばかりだったから。

無作為に情報を得ていただけの私ですら、蓄積されていく名前のない違和感に押しつぶされそうになったのだ。

この数ヶ月で立ち上がることができなくなった人、傷を負った人、「絶望」を見た人を、弱い人だとは私は思わない。

私たちは知らなかっただけだ。

どうすればいいのか、どうなっていくのか、どうしておけばよかったのか。

ウイルスひとつで、世界がこんなにも変わることを。そして、もう二度と、元の世界には戻らないことを。



ただ、幸か不幸か、私たちはもう知っている。

在るはずだったものが失われる痛みも。新しい日常を受け入れていく心許なさも。変わらない毎日を守るために、変わり続けることの尊さも。

辿りつくのにひどく時間がかかってしまったけれど。この数ヶ月で私たちが知り得たこと、手離すこともできず溜め込んできた違和感こそが、私たちにとっての等身大の「希望」なんじゃないだろうか。

だって、「知っている」からこそ、未来に返せるものがあるはずだから。

これから、目の前の日常を大切に大切に愛おしもう。そして、手にした小さな希望を見失うことなく、少しずつ準備をはじめよう。

「悲しいね」のボタンを押すことしかできなかった自分が、来るべきとき、守りたかったものを守れるように。


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書くと共に生きる人たちが集まるコミュニティ「sentence」で開催されているコラムリレーにて、安久都 智史さんからバトンを繋いでいただきました。コラムリレーのテーマは「希望」です。

僕はまだ、自分の言葉で希望を語ることはできない。けれど、大切な人のそばにいることはできる。

軽々しく「希望」を語らず、今の自分にできる最大限を探ろうとするあくつさんのこの一文を受けて、自分にとっての等身大の「希望」とは何かを考えさせられました。

自粛生活のさなかは、積もりゆく違和感に対してあまりにも自分が無力で、鬱々としていて。

でも、この数ヶ月の「非日常」でたしかに私たちは変化している、それをこれからに返すことはできると思えたのは、他でもないこのコラムリレーのおかげです。

このnoteは「書く」を学び合い、「書く」と共に生きる人たちの共同体『sentence(センテンス)』にて実施中のコラムリレーに参加しています。今回のリレーテーマは「希望」。希望をつなぐ次なる走者は kayoko hayashi さんです。お楽しみに!
#書くと共に生きる #sentence #希望

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