あなたのその先が知りたい
最後の夏休み(ほぼ)毎日日記。何か特別なこととか夏休みの総括なんて言って壮大なことでも書こうかと思ったけれど、私の毎日は普通の時間の流れでそれなりに過ぎてゆくものだったから、最後までその空気感を纏わせた日記のままにしておこうと思う。少しだけ今年の夏休みのことを明記するとすれば、去年よりも良い夏休みを過ごしたということぐらいだろう。
夏休みが始まってすぐの頃にあった大量の積読が、今はもう半分以下に減ってしまった。なんだか寂しくなった私は、本屋へ向かって新しく本をお出迎えした。朝井リョウの『もういちど生まれる』をさっそく読み始めた。私は朝井リョウが大好きな作家さんのうちの一人で、ここで愛を語るに語りきれないのでやめておく。この小説は一人称で語られる短編だけれど、世界線は同じだから人物の関係性や時間軸を切り分けられない。すべてが繋がっている物語。この中にある「もういちど生まれる」という短編を読みながら私は、ふと思い出したことがあった。
大学受験に向けて浪人しながら予備校に通う主人公と予備校の講師が出てくる場面がある。そこを読みながら、私の脳裏に今まで全く姿を現さなかった存在が蘇ってきた。
高校三年、受験生。私は某大手塾に通っていた。その塾では受験生になると、主にアルバイトで雇われた大学生がチューターとなり、受験生一人ひとりについてサポートをする仕組みがあるらしい。私のチューターは、大学一年生でいかにも髪染めたてですみたいな綺麗な茶色をしていた男の人だった。年は一つしか変わらないし、去年まで同じように受験生だったというのに、スーツを着こなした彼の姿は私からすると紛れもない大人だった。
初めて個人面談をしたとき、志望校のことや受験の相談など当たり障りのない、おそらく塾側からのマニュアルであろう会話だけを機械的に交わした。第一印象は、とても明るくて、でも緊張している面持ちなのが伝わってきて、この人は誰からにも好かれるんだろうなと思った。講義を受けるために教室へ向かう廊下ですれ違ったとき、彼は笑顔で「頑張ってな」といつも言ってくれた。なまりがあるから、なんとなく関西からきた人なんだろうなと思った。私はいつも笑顔でお礼を返すことで精一杯だった。
夏と秋の狭間の時期にまた面談があった。そのとき彼が、私の志望校には推薦があって、その中でも志望理由書だけで合否が決まる推薦があるということを教えてくれた。「難しいやろうけど、一般以外にも選択肢があるから受験できるチャンスが増えるよ」と。ただのアルバイトが自分の時間を使ってまで志望校の大学サイトを見てくれていたのか。しかもチューターは複数人の受験生を担当している。私だけじゃないはずなのにと、驚きを隠せなかった。私はこのとき心に誓った。絶対合格してやると。自分のためにというよりも、仕事であろうと他人でさえ応援してくれているのなら、その人を笑顔にしたいと思った。
学校の授業が終わったら毎日塾へ向かった。ついチューターがいないかなと探してしまう。いるときもあればいないときもあって、いたとしても話せないことがほとんどだった。それでもいい、私は今は頑張るしかないのだと勉強だけに食らいついた。推薦の志望理由書を作りながら一般の勉強をすることがこんなに大変だとは思っていなかったけれど、どちらも手を抜くことはしなかった。あっけなく推薦は落ちてしまった。結果を伝えに行くと、少し悲しそうな顔をした。それは多分、志望校に落ちるという恐怖感をすでに経験しているから、私のことを思って余計な言葉をかけないようにしたのだろう。「一般を頑張るだけです」と私は心強く口にした。そんな顔にはもうさせたくない。
受験間近、相変わらず塾の自習室で勉強していた。すると、チューターがいて「もうすぐやな」とかフランクに話をしてくれた。この時間が息抜きの中でも結構好きな息抜きだった。目の前に見えたチョコのクッキー。「受験頑張ってな」とお菓子をくれた。嬉しくて嬉しくて、「チョコ大好きです」と言うと、「好きかどうかわからんかったけどよかった」と彼は言った。過去が美化されるという現象も相まって、今思い出しただけでも胸が熱い。もらったクッキーを食べて受験に挑んだ。
結果的に、受験は惨敗。7つ受けて1つしか合格できなかった。悔しい悲しいというよりも、周りの支えを無駄にしてしまったという思いが圧倒的に強かった。チューターには担当の子の受験結果がすぐに伝わるようで、受験後に会ったときにはまた何と言葉をかけていいのかわからない顔をしていた。「クッキー美味しかったです」と私は笑って伝えた。
塾をやめて、高校を卒業した。私は塾に電話をかけ、チューターが塾にいる曜日を聞いていた。
どうしても伝えたかった。
塾で彼が来るのを待っていた私の前を通り過ぎる人たちは来年の受験生なのだろうか。私は少しだけ居場所のなさと一歩進んだところに立っている余裕を感じていた。彼は私を見てすぐに「え!めちゃくちゃ雰囲気変わったね」と目をまん丸くして驚いていた。卒業後すぐに髪を染めた私は、もしかしたら彼を初めて見たときに抱いたいかにも髪染めたてです感を上回っていたのかもしれない。
髪染めたんですよと少し照れながら耳にピアスもあけていた私は、本当に別人のように見えたと思う。そんなことはどうでもよくて、本題はこれまでのお礼と一緒に手紙を彼に渡すことだった。感謝の言葉を口にして手紙を渡したとき、また目をまん丸くしてめちゃくちゃ驚いていた。口にして素直に本音を伝えるのが苦手な私は、手紙でならなんでも伝えられる。だから、心からの感謝と気持ちをどうしても伝えたかった。大袈裟でも何でもなく、あなたのおかげで受験を頑張ることができました、と。
彼は今、大学四年生。まだ塾でチューターをしているのだろうか。野球サークルに入っていると聞いたけれど、もう引退したのだろうか。あの染めたてみたいな茶色の髪は今何色になっているのだろうか。
そんなことを、ふと思い出した。今まで彼のことを思い出す引き金は日常の中に一つもなかった。この小説を読んだおかげで、私の中から彼の存在が消えていないことに気づけてよかった。もう話すことも会うこともないのだろうけれど、私は彼の今が気になる。
私とさよならをした後の、その先が知りたい。
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