茶の湯の花と真言(後半)
こんにちは!
最近は「修験」に心ときめいているマエシマです。
(#古道を自分の足で歩くのが趣味です)
さて、本日は「茶の湯の花と真言(後半)」についてお話したいと思います。
「茶の湯の花と真言(後半)」
まず、お茶の花についてざっくりと説明したいと思います。
世界中で、花を楽しむ文化ってのはあります。
フラワーアレンジメントとか。
ただ、「花をいれる」ことを「生ける」とか「活ける」という風に、その真髄を突き詰めて「生きる」とは?というところまで、昇華した民族は日本人くらいではないでしょうか。
(#手向けの花はいろんな国にあると思いますが、、)
現在の日本のほとんどの流派華道は「アート」の方に舵を切ってしまってるようにおもわれるので、そこに500年前の真髄は見えにくいように思います。
(#それが悪いという話ではありません。)
茶の湯のほうでは、少し残っているみたいですが、お茶では花をほとんど教えてくれません。
唯一残っている口伝は「花は野にあるように」というコトバのみで、この辺を掘り下げて教えてくれることはあまりないです。
「たてはな」と「なげいれ」
ちょっとディープな話ですが、お付き合いいただけると嬉しいっす。
「花をいける」という場合大きく2つの世界観があります。
▼まず、「たてはな」です
もともと京都のお坊さんが、本尊にお供えするための花を研究し始めました。
この花は神仏にお供えする花なので、格式高く、荘厳な花です。
こみ藁という花どめに立てるように花を入れます。
花は緊張感を持って、ピシッと背筋が伸び、止まります。
この文脈を組むのが、いわゆる「華道」で剣山という針の山に花を刺す原型が、この「こみ藁」です。
花を立てるので「たてはな」と呼ばれます。
道祖神さんなどで、竹などの上にヒノキや杉などの葉をくくりつけて、真っ直ぐに立てますが、あれは、冬場山に帰ったカミさまをそこに招いているんです。
これが、「たてはな」の原型です。
つまり、カミが宿るような花でないとイケナイわけです。
すげえディープですね・・・・
▼一方の「なげいれ」は?
お茶はこっちに近い世界観です。
「なげいれ」はこみ藁や剣山などの「花どめ」は使いません。
水の対して真っ直ぐに「投げ入れる」。
これだけです。
たてはなに比べて、ゆったりとした雰囲気になります。
しかし、思い通りに止まらないし、風が吹けば動いてしまう。
つまり、型がないんです。
なので、茶の世界でも
「花は野にあるように」
というふんわりしたコトバしか残っていないんです。
実は、これは利休さんのコトバと伝わっています・・・
利休って茶も大成したんですが、その過程で「なげいれ」も大成したんです。
ただ、花のほうは型がないので、伝わりにくかった。
利休を超えるなら、花でも利休を超えないと話になりません。
「花は野にあるように」
つまり、花が野に、どのような姿で存在しているのか、知らないと話にならないということ。
野というのは、野原ではなく、山野を意味していると思います。
山野での花の姿を知らないと、茶の花はいけられないということです。
つまり、すべての山野や古道を歩かないとならないんです。
利休を超えるのは簡単ではありません・・・
日本の山野を祈り歩いたのが、修験道だと思います。
ここで、「花」と「修験」が交わってくるのだと思っています。
さて、だいぶそれてしまいしたが、
「なげいれ」の話でした。
投げ入れでは、生命の源である「水」に対し、真っ直ぐに入れることを求められます。
空気が入るように。
風が抜けるように。
なげいれには、たてはなのような芯はありません。
しかし、見えないだけで実は芯があるんです。
つまり、なげいれは「たてはな」のその先の世界なんです。
阿字観では、スタートする時に「五体投地」という所作があって、これは、地面に手足と頭をつける礼で、これは投げ入れでいうと、地面から立あがりゆく始まりを示しているように感じました。
マニアックすぎて・・すみません・・・
マニアックを加速させます。
未敷蓮華(みぶれんげ)という蓮の花のつぼみにカタチを両手で表現する合掌があるんですが、これも、手のひらの中には「空」しかなく、投げ入れの花もここを目指すんだなあ、と直感しました。
で、最後に「出定」という所作があるのですが、これがまさに「なげいれ」とリンクしまくってるんですが、ディープすぎるので、今回はこのへんで終わります。
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