なんで勉強をしなくちゃいけないの?

みなさん、こんにちは、LEOと申します。

今回のひとりごとは「なんで勉強をしなくちゃいけないの?」に対する僕なりの考えを書いていこうと思います。

1、はじめに

みなさんは勉強が好きでしょうか。あまり好きではない人が多いと思います。僕は受験で志望校に受からなかったときに、すごく勉強がキライになりました。
「勉強したって、落ちる人は落ちる。じゃあ、勉強したって意味ないじゃん」と思っていましたし、今もそう思っています。

じゃあ、意味のない勉強をするべきなのでしょうか。
受験があり、学校ではテストがあり、毎日の授業があり、宿題がある。このように学校では勉強することを強要されます。高校まででも12年間も強要されてくるわけです。うんざりですね。

はじめに言ってしまうと、「何のために勉強するか」に対する僕の応えは「勉強するため」です。勉強に意味を求めてすぎてはいけません。
何を言っているんだと思う人もいると思いますが、理由はここで書いていきます。

また、参考文献として、最近文庫化もされた
千葉雅也『勉強の哲学――来たるべきバカのために 』
を挙げておきます。この本は素晴らしいので、是非読んでほしいです。
(ここでの内容もすごく影響を受けてます)

2、勉強とは何か

まず初めに勉強についての認識を改めなくてはならないと思います。
学校の勉強だけが勉強ではありません。
国語、社会、理科、算数、英語だけが勉強というわけではないのです。もちろんそれらは勉強ではあります。しかし、勉強の一部分にすぎないのです。

千葉先生は本の冒頭で「勉強とは自己破壊である。」(18頁)と言っています。つまり、自己を破壊できるものは何でも勉強と捉えることができます。(物理的な意味ではないとも言い切れない…)

自己破壊は認識の変化です。より素朴に考えると、自分が新たなことを発見し、「なるほど」と思ったことや、「すごい」と感じたことも自己破壊の一種と言えます。その意味では、学校で習う金属の炎色反応も、テレビで流れているものをスマホで調べるのも、カントの『純粋理性批判』を読むのも全部勉強ということになります。

少し違和感を感じると思いますが、それは正常です。なぜなら同じ勉強でも、勉強の深さが違うからです。千葉先生は勉強の深さ、深い勉強とも呼んでいます。テレビで理性という言葉が出てきたから、『純粋理性批判』をいきなり読み始める人はそうはいません。理性という言葉が気になったら、スマホで調べ、哲学で扱ってることを知り、カントを知り、カントの入門書を読み、『純粋理性批判』を読む、といった勉強の仕方をする人が多いはずです。つまり、スマホで調べるのも、『純粋理性批判』を読むのも勉強は勉強ですが、段階が違うので違和感がある、ということでしょう。

3、学校の勉強を捉えなおす

それでは、勉強を見直したところで、学校の勉強について考えていきます。学校の勉強は意味のないようにも思えてきてしまいます。漢字の書き取りなんてスマホで調べればすぐだし、因数分解なんて学校以来やってないと考えると思います。僕もそう思います。

しかし、学校って毎日毎日子どもを拘束して、まったく意味のない話をしているところと決めつけてしまうのは少し早すぎます。学校は様々な考えるための素材をくれます。例えば、炎色反応は花火に使われています。花火大会でキレイ花火が何でキレイになるか、と考えると学校で習うことに行きつきます。

それでは何が問題かというと、僕たちが何に興味を持つかが分からないことです。世の中には多種多様なコンテンツにあふれています。それは多種多様の価値観を持つように人間がなったからとも捉えられます。多種多様の価値観ができ、それに基づくコンテンツができ、そのコンテンツでまた価値観が多様化し、とどんどん価値観が広がっていきます。おそらく収束はできないものです。このようなコンテンツに触れ続ける時代であるので、この先自分が何に興味を持つのかを見通すことは不可能だと思います。

そこで、学校の授業ではこれらの興味の広がりの土台を与えてくれます。
学校で習ったことがどのくらい重要かはわからないものです。ただ、学校で教えていることは世の中の根本的なところの場合が多いです。退屈な話をする先生もいます。そういう時は話半分で、聞き流してもいいかもしれません。ただこの先、何かコンテンツに触れたときに「学校で聞いたことある‼」という発見をすることができるかもしれません。そこで勉強がつながります。

4、勉強は興味が続くだけやればいい

今までの話を踏まえて、もう一点大切なことがあります。それが興味です。千葉先生は享楽と呼んでいます。この興味は勉強を始めるきっかけとなり、勉強を続ける燃料のようなものにもなります。
すごく簡単に言うと、興味が続く限り勉強すればいいということです。千葉先生は「勉強の有限化」(130頁)と言います。もし、ガンダムについて知りたくても、飽きたらやめればいいだけです。裏を返せば興味が無いことはムリに勉強しなくてもいい、とも捉えられます。ただ、二次関数に興味が無ければ勉強しなければいいだけです。

「そうもいかない、明日二次関数のテストがある」という人もいると思います。そこで発想の転換をします。「勉強をやらされている」ではなく、「勉強をしてやってる」というように考えます。このコンテンツが溢れている世の中、いつ二次関数が役に立つか分かりません。ただ絶対に必要ないと決めつけるのはまだ早いです。もし必要になるときが来た場合、やってなかった自分に後悔するかもしれません。

5、「勉強をするのは、勉強をするため」(ここだけ読めばOK)

今までの話を踏まえて、「何で勉強をするのか」を考え直していきます。
偉い人は「勉強をするのは、君の将来のためだよ」とか「幸せになるためだよ」とか言います。それは本当かもしれません。でも、僕はそれだけではないと思います。勉強することにそこまでの意味はありません。勉強は勉強それだけで完結するものだと思います

まず、勉強を広くとらえます。スマホもテレビも一つの勉強の形です。勉強して手に入れた知識は次の勉強へとつながります。そして、興味が無くなったらやめる。そしてまた次の勉強へ。

学校の勉強はつまらないものもあります。でも、それで勉強がつまらないものと捉えてしまうのはダメです。勉強は楽しいものです。なぜなら、興味が続く間のみ勉強を続ければ十分だからです。学校でのつまらない授業は、「勉強してやってる」という姿勢でも大丈夫です。それがいずれ役に立つことがあるかもしれません。

このようなことから僕は「勉強するのは勉強のため」と考えます。勉強は自己完結していて、人間の興味がある限り終わりません。さらに、多種多様なコンテンツがあり、一度勉強で身につけた知識がもう一度必要になることもあります。そんな勉強を今日も続けています。

6、おまけ 参考文献『勉強の哲学』

3年ほど前に僕はこの本に出合いました。
この本の著者の千葉雅也先生は、初の小説で芥川賞にノミネートされているほど、文章がうまい人です。
この『勉強の哲学』を初めて読んだときに、すごく衝撃を受けました。内容は少し専門的なことも、平易な文体と分かりやすい表現で伝えてくれます。
ここで書いてあることの何倍もためになることが書かれていると思います。もし、少しでも気になった方は、とりあえず読むことをおススメします。
この本で勉強したことも、いつか何かに役立つかもしれません。

参考文献
千葉雅也(2020)『勉強の哲学――来たるべきバカのために 増補版』文藝春秋

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